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軍事板「戦時中、戦場でのほのぼのとした話」スレまとめサイト
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314 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/08/10(月) 19:28:23 ID:???
祖母の話。

戦争末期、旦那が基地に働きに出ている間に空襲があった。
祖母は娘二人を連れて防空壕へいそいだが、就学前の下の娘がはぐれてしまった。
祖母は上の娘を防空壕へ入れると、自分は焼夷弾の雨の中、下の娘を探しに飛び出していった。

やがて空襲警報が解除されたあと、下の娘は親切な人に連れられて、別の防空壕に避難していた事が分かった。
その親切な人は、上の娘の元に下の娘を連れて来ると、名乗りもせず去っていったそうだ。

ちなみに母親たる祖母は、防火水槽に飛び込んで難を逃れ、これまた無事だったとのこと。

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265 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/08/05(水) 21:45:50 ID:???
中国戦線で、大規模な敵陣地を攻撃する前夜、
最後の晩餐かもしれないと隊からリクエストの多かったカレーを、
戦地の即席材料で作った。
翌朝攻撃に出てみると、陣地はもぬけの空だった。
カレーのにおいで感づいて、夜間に陣地を抜け出したようだ。
こんな記事を、数年前何かで見たことがあるなぁ。

あとは、捕虜になった軍医が米軍兵士の腹痛を診たら、
お礼にKレーションをくれて、それがとてもうまかった、
なんて記事も読んだ記憶がある。
 

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257 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/08/05(水) 16:37:49 ID:???
じゃあネタだすお
「英仏海峡の空戦」より

第二次大戦も終わりに近づいた頃、フランスへ進出していたRAF第123ウイングは
基地にてシャンパンをよく飲んでいた。だが、どうしてもイギリスのビールが飲みたい
彼らは部隊のタイフーンで英国本土へ飛び、増槽へビールを詰めてフランスの基地へ
ビールを輸送することにした。
この方法は中々うまくいっていたものの、ある時1日に2度も敵と誤認した米軍機に襲われ
ビール入り増槽を投棄せざるを得なくなるという事件が発生。ビールは隊員の自腹だった
ため非常に手痛い損害であり、以降タイフーンによるビール輸送は中止となった。

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187 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/07/27(月) 00:43:48 ID:???
黄昏 (ガダルカナル戦詩集 吉田嘉七 より抜粋)

お母さん、
私は今西の方をむいて居ります。
日本の方をむいて居ります。
黄昏は深くジャングルにせまってきました。
もう大分くらくなりました。
ただ私のむいてゐる方がけが眞紅に燃えて居ります。
一面の青さの中でそこだけが匂って居ります。
その明るい方をむいて居ります。
あなたの方をむいて居ります。

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166 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2009/07/21(火) 19:44:07 ID:u7qmyWSA
日米休戦成立! 戦闘を中止せよ!

日本陸海軍将兵並びに市民に告ぐ

日米和平協定が締結され、大東亜戦争は遂に終了致しました。
諸君の義務は終り現在地に留っている理由はなくなりました。
米軍は諸君の名誉を重んじ責任をもって安全に保護致します。
至急米軍基地に御出で下さい。
但し間違を未然に防ぐ為、武器を捨てて昼間来て下さい。

第八軍司令官

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1945年8月、フィリピン戦線にて撒かれたされたチラシ。
このチラシの文章、根拠は無いけど日本兵捕虜のアドバイスを
受けているような気がします。
「日米休戦成立」「日米和平協定」の文字を見ると、何故だか
ほろっとしてしまう…


167 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2009/07/21(火) 21:19:44 ID:prJT6gJ5
>>166
本当に日本人が原案練ったんじゃないかな?
それで投稿してくるのは、組織的抵抗の出来ない人たちだから、
無駄に命を散らせるよりはと思って書いたのかな。

168 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/07/21(火) 21:31:12 ID:???
普通、伝単って捕虜なり協力者なりの翻案で作られるもんじゃないの?

169 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/07/21(火) 22:13:08 ID:???
兵隊に告ぐ

日露戦争に日本は大勝利を得ました。
御国の御為め手や足を失った勇士は、その後どんな待遇を受けて暮らしたか
皆さんご存知でしょう。
廃兵の殆んどが征露丸売になった事は皆さん知って居るでしょう。
初めの内は名誉の戦傷勇士と持て囃され沢山薬が売れました。
二年目頃からは単なる物売と見られ三年目は押売と言われ、その後は遂に
廃兵贋者だと棒で追い出され、薬も売れず生活に困る様になりました。
政府はそれに対し何の処置も行わず、其の為名誉ある戦傷勇士の多くは貧しく
淋しく普通の片輪者として笑われて死にました。
人の心は今も昔も同じです。一時の名誉の為め負傷したり、死んだりすることは
本当に詰らない事です。

-----------------------------------------------------

沖縄 1945年3~4月 米軍伝単

こういうのも日本人じゃないと書けないですね。


170 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/07/21(火) 22:29:29 ID:???
三八式歩兵銃

諸君の使って居られる三八式歩兵銃は明治三十八年の日露戦争当時新鋭兵器
として村田銃に代わって戦線に登場したのは御承知の通りであります。
然しこれは四十年前の事であります。その後各国は競って科学の研究に没頭し
科学兵器に一大進歩を見た事は世界各人の知る処であります。
然るに諸君が自動小銃に対し槓桿式の小銃で戦わねばならないのは何故でしょうか。
若し諸君の敢闘精神に米軍と同様な新鋭兵器を以って闘ったらレイテ島の様な
悲惨を見ずにすんだかも知れません。
いくら精神力でも三八式歩兵銃ではどうしてコンソリの五〇〇キロ爆弾に喰って
かかることが出来ましょうか。


-----------------------------------------------------

米軍伝単       くやしいのうくやしいのう

 

171 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/07/21(火) 22:57:27 ID:???
内輪ネタで攻められると来るなぁ

172 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/07/21(火) 23:49:29 ID:???
理路整然と「大和魂頼みの戦争指導のおかしさ」を指摘されると、
前線の将兵としては怒りの持って行き所がなくて、虚しくなるか腹
が立つか微妙なラインだ。

年食ってから徴兵された兵卒や、高等教育受けた後の士官なら、
アメさんの言うことも一理ある、でハラに落ちてそれはそれ、これ
はこれと割り切れるだろうけど、年少の者や精神論の信奉者など
はどう反応するんだろうな。
ぶち切れて余計米英嫌いが亢進する副作用もありそうなんだがw

173 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/07/22(水) 06:14:36 ID:???
>>169-170
>こういうのも日本人じゃないと書けないですね。

不謹慎かもしれんが、コピペライター的なものを感じるな。

174 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/07/22(水) 10:39:42 ID:???
>>172
昔読んだ元日本兵が戦後に綴った戦記だと(たしかフィリピン戦)、
投降した日本兵と米軍人が仲良くご飯を食べてる絵が載った
伝単にグッときたらしいよ。

後に長編の手記を書き上げるくらい教育程度の高い兵士でも
飢餓線上にあると、理屈よりこういう心理的な宣伝に
ほだされることもあるようです。

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GO!

162 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/07/19(日) 09:12:11 ID:???
沖縄戦を戦ったアメリカの駆逐艦の副長の話

彼の乗っていた船は、空母の外について神風特攻隊を迎撃し、
連日、目の前で落される零戦を見ていました。
その時、乗っている17~8の操縦士の顔も見えたそうです。

ある日、一機の零戦が、攻撃をくぐり抜け、艦橋の横を通り過ぎ
空母に向かっていった時艦長と共に彼は叫んだそうです。

「行け!」「GO!」


…って、ぜんぜんほのぼのとしてないな (´・ω・`)

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8 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2009/05/16(土) 19:29:49 ID:+ub4XT9f
ある予科練生達の話(訳あって何期生かは伏せておきます)。時期は台湾沖航空戦の前かな?たぶん。
松山航空隊から台湾へとえっちらほっちら移動になり、そこで訓練を受けることになった一同。
ところが次第に戦局は悪くなり、雲行きは怪しくなる一方。
基地にもたびたび攻撃を受け、練習飛行中の仲間が攻撃してきた敵機に落されたりと、それは穏やかとは程遠い状態が続いた。
飛行中にやられるのも怖いが、爆撃も怖い。が、予科練生たちにとって、敵の爆撃が飯時の直前に始まるのが一番辛かった。
というのは、爆撃が始まると、主計兵が調理をほったらかして防空壕に逃げてしまい、その日は飯抜きになってしまう。
16かそれくらいで徴兵されてきた食べ盛りの予科練生にとっては、正に生き地獄。

そこでさっそく一計を案じた予科練生たち。空襲が始まると、主計兵が火を消してさっさと防空壕に逃げるので、
火が消される前に飛び込み、主計兵に代わって調理を継続しようという事を決め、
朝食の場合はお前の班、昼飯の場合はお前の班、としっかりと時間帯に合わせた役割までも定められた。

そして翌日。偶然にも朝飯前に米軍機が来襲。指定された班はダッシュで厨房に駆け込み一言。
「早く逃げろ!でも火は消すな!」
そして主計兵に代わって、爆撃の中、必死になって飯を炊いたそうな。
爆撃をやり過ごした予科練一同、目標の飯は守ったが、「でもこれ、命令無視じゃねぇの…?」とみんなガクブル状態。
ところが、士官も怖~い教官も、爆撃後に温かい飯が食えると大喜びしてくれ、一切のお咎めなしで済んだそうな。

その日以降、その基地では爆撃が始まっても飯は作り続けることになったとか。


9 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2009/05/16(土) 19:40:18 ID:FGEwfv5A
毎日当たり前に飯が食える私

先人に感謝だ


10 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2009/05/16(土) 19:49:19 ID:+ub4XT9f
>>8
あ、徴兵じゃねぇや、この人たち志願兵だった(滝汗


11 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/05/16(土) 20:24:28 ID:???
メシの力は偉大だねぇ。

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956 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/04/24(金) 22:27:10 ID:???
中支派遣軍の最前線にて
日中両軍が陣地を構え、わずか数百メートルにて対峙していたが、ある日中国軍の
軍使がやってきて
「お互い無駄弾を打ち合っても仕方ないし、しばらく打ち合いをやめにしないか?」
と提案があり、最前線の部隊どおしで勝手に停戦協定を結んでしまったそうな。
そんなある日、中国語ができる日本兵が暇に任せて敵陣に話しかけた
「おーい、そちらは1日に何回メシを喰ってるんだ?」
「1日2回だ」
「日本軍は1日3回喰ってるぞ」
「うそだー!」
「本当だー!メシだけじゃない、菓子も酒もあるぞ!喰わせてやるからこっちに来いよ!」
「撃たないか!?」
「撃たないから来いよ!」
やがて本当に中国兵が日本軍陣地にやってきたので、腹いっぱいメシを喰わせて
無事帰らせてあげたという。


957 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/04/25(土) 06:56:46 ID:???
日露のころはマジでそういう事もあったと聞くけど…国民党相手にそんなことできたのか?
民間人ゲリラまで動員してる連中だろ


958 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/04/25(土) 08:27:28 ID:???
漏れは国民党軍の実態は分かんないが、人口の多い中国のこと、色んなケースが
あってもおかしくない。文化大革命までは文化人も多数居たんだろうし。


960 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/04/26(日) 09:05:20 ID:???
>957

赤はともかく田舎の軍閥@国民党推薦みたいなんとは仲良く・・・。

東條にバレて兵団ごとフィリピンだったかサイパン送りになったとか・・

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948 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/04/22(水) 22:41:57 ID:???
『スターリングラード 運命の攻防戦』にあったエピソード。

スターリングラード戦当時、ロシアではまだ白の迷彩衣料が不足していて
狙撃兵だけに優先的に支給、おまけにそれが負傷したら別の兵士がそれを
剥ぎ取ってこなければ数が回らなかったらしい。
で、いつものように血まみれで横たわる仲間から衣料を剥ぎ取ろうとすると
その負傷兵が息絶え絶えになりながらも手首を掴んでくる。
恨み言の一つでも言うのかと思えば、「血で汚してすまなかった」と一言。


……ほのぼのしてないな。

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943 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/04/20(月) 01:18:31 ID:???
461 名前: スターリングラード戦の思い出話 [sage] 投稿日: 2009/04/19(日) 00:45:38 ID:???
…当事攻防戦に参加し生き残った元兵士たちを探し出し、市内最大の激戦地で今は戦争記念公園と
なっているママイの丘で語らってもらった。戦死者を悼む永遠の火を絶やさぬ記念墓地や、高さ80
メートルの「母なる祖国の像」がある。この丘で戦死した7200名の名を刻んだ壁があり、その壁面に
沿って歩いてもらった。歩いているうちに、壁面に馴染みの名前を見つける。
「ああ、あいつはここで死んでいたのか」
 と始めて知り、もう老境に入った元兵士たちが泣き崩れる場面もあった。
そのうち、思い出話に花が咲いた。カメラは回り続けるが、もうカメラの存在など忘れている。

「そういえば、毎晩暖房代わりにウォトカが50グラムずつ配給されたなあ。アレだけが楽しみだった。」
「そうそう。もったいなくてチビリチビリなめるように飲むヤツもいれば、グイッと一気に流し込むヤツも
いたっけ」
「一人一人の性格がモロに出たなあ。覚えているかい、セリョージャって若くて元気のいい青年」
「うんうん、まだ口ひげがうっすらと産毛のように生えてきたばかりだというのに、イッパシの男ぶって
生意気なところがあった可愛いヤツ」
「ウォトカを50グラムずつ飲むなんてケチなことをするやつは、ロシアの男じゃない、とか抜かしやがって
500グラム瓶に毎晩50グラムずつ流し込んだもんだ。瓶が満杯になったら一気に飲むんだ、と言ってね。」
「そうだったなあ。毎晩ウォトカのレベルが上がっていくのが楽しみで楽しみで仕方がないっていう風だっ
たなあ」
 このあたりから、ゴツくてモサモサした老兵士たちの声はやたら湿っぽくなり、鼻をすすりだした。
カメラは回り続ける。
「瓶がちょうど満杯になるその晩、ヤツは帰ってこな……」

米原万理著 「ロシアは今日も荒れ模様」より

大祖国戦争スレより。ほのぼのというよりしんみりかもしれないけど…

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