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軍事板「戦時中、戦場でのほのぼのとした話」スレまとめサイト
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832 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/09/03(土) 20:38:09.85 ID:???
そういえば、戦史叢書のどれかに、
帝国陸軍が村の壁だかに、はったプロパガンダポスターが、剥がされてて、
中国人の家の中に張ってあったのを見つけて、
何で張ってるのかと聞いたら、
きれいだからと、答えたという話がのっていた。


840 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 03:56:40.79 ID:???
近代建築をどんどん壊して新しいビル建てるからなぁ日本は

>>832
伝単といい帝国陸軍ってなかなかセンスいいよね

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803 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 14:32:04.04 ID:???
広島の話が出たので、ほのぼのとは違うが
一人の決断が大勢の生徒を救った話をいくつか。
広島島市内で行われた建物疎開は場所にもよるが
死亡者99%~75%、一学年全滅すらあったが
逆に300名の生徒と8名の教師全員が無事だった学校がある。
当時の比治山高等女学校は鶴見町へ作業同位される予定だったが
校長の決断が生徒たちを救った。


805 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 14:47:47.57 ID:???
前日の八月五日夜、ラジオは土佐沖に大型爆撃機40機集結のニュースを流していた。
「狙いは広島か?」
比治山高等女学校の国信校長は
至急学校へ駆けつけ他の先生と夜二時まで警戒に当たっていた。
美しい星空を眺めていると、突然風が止んだ。
「明日は晴れ…風もなければ朝方から空襲もあり得る」
明朝七時半には生徒たちを現場に向かわせなければならない…だが、明日は空襲がありそうだ。
どうしたものか悩み続けたまま夜が開けた八月六日朝七時、広島市内に警戒警報が鳴り響く。

校長は決断した。
「空襲がくる…防御設備がない作業現場へ生徒を出せば死なせてしまう」
警戒警報では出動しなければならないのだが、
登校していた生徒たちには教室待機を命じ、
「出動時間は過ぎているのに比治山高女はどうした」と問い合わせが来るなか、
8時15分が過ぎた…300人の生徒たちはこうして生き延びた。

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800 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 14:05:16.19 ID:???
今は昔、水木しげる先生が兵隊になり魚雷みて興奮する前の話。

日本工学学校に通っていた水木先生、毎日学校で居眠りしては新聞配達のバイトをしていた。
ある日、突然職員室に呼び出され、呼び出した学校の先生曰く

「入学以来、英語毎回0店だがやる気あるのかね?言いたいことあったら言ってみ」
答えに窮して一度はオットセイのようなうめき声を出したが、
水木先生も黙っていない。
「日本は非常時で南方も占領してますから…マレー語かなにかにしたらどうでしょう」

ある意味まっとうな意見ではあるが、意見された教師からはお説教、
学校はまもなく首、バイトも首になったのだった。
戦時下だろうがなんだろうが、本当にマイペースな水木先生だった。


801 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 14:08:28.67 ID:???
>>800
学校はともかくバイト先までクビになるのは何故だw
それにしても水木先生変わらんなぁ


802 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 14:18:31.24 ID:???
>>801
朝刊の時間まで寝て、夕刊配る時間まで帰ってこないから。
配達所のオヤジが代わりに配る日が多かったそうな…。

余談だが、水木先生が乗船した信濃丸、実は三代目江戸屋猫八師匠ともご縁があった。
この話はまた別の機会に。

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794 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 09:25:26.38 ID:???
ウチの母側の爺ちゃんは、体が弱くて兵隊になれなくて広島市内の工場に勤めてた。
ある日海水浴したせいで、日焼けが痛くて工場行くのをサボったら原爆落とされたらしい。
すごい強運っつーかあの時代に海水浴して工場サボっていんかいって突っ込みたかったわ。


795 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 09:58:30.06 ID:???
まるでじいちゃんがサボったせいで米軍がキレて原爆落としたみたいな書き方だな


796 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 10:07:16.82 ID:???
じいちゃんは人類の行く末を左右する特務機関の人間だったんだよ


797 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 10:13:42.25 ID:???
サボったらクビになるのがウチの会社
サボったら原爆落とされるのがその工場


798 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 10:23:54.06 ID:???
実は原爆が投下されたのではなく、その工場で作っていて
じいちゃんがサボったせいで制御に問題が出て爆発したという真実


799 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 10:59:33.60 ID:???
まっ原爆の日は、どのみち広島市内に行く船が故障して行けなかったみたいなんだけどね。
おかげで島の人はたくさん助かったみたい!


811 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/31(水) 21:34:32.27 ID:???
794の話で思い出したけど、今も昔も軍と縁の深い某工場で勤務していたんだけど、戦時中の古い書類を処分することになった時に、当時の出勤簿が出てきたことがある。
漠然と皆真面目に出勤してるイメージだったんだけど、実際は7割も居れば良い方って感じで驚いた。
で、爺様(うちは三代続けて入社してる)に当時のことを聞いたら、「真面目に出勤してたら原爆で死んどったなw色々理由をつけて皆サボっとったよ。」だってさ。
未だに武蔵建造時の工員から外されたことを根に持っていて愚痴を言うんだけど、毎回家族一同から「爺ちゃんの勤務態度が悪かったんだよ!」と突っ込まれてる。

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633 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/12(金) 18:21:11.60 ID:???
>>615
昭和20年8月9日、ソ連軍満州侵攻が始まり、同日、樺太からの北海道疎開が開始された。
15歳未満、65歳以上の男子と婦女子に限る、とされた、樺太南端の大泊港から北海道・稚内への緊急避難は、
8月13日から本格化したが、
定員800人の連絡船「宗谷丸」に4700人を詰め込み、
その上に海軍の海防艦6隻まで動員しても、まだ積み残された避難民が、大泊港に8列で3キロの長さの行列を作っていた。

しかし、同日、鉄道省稚内管理部では、ソ連軍の北海道上陸が近いと判断、
ソ連軍に鉄道を利用させないため、動ける車両を疎開させる計画を立てていた。
軍需輸送、兵員輸送関連の軍機書類の焼却も始まっていたところに、15日の玉音放送。
車両疎開のための臨時列車運転はその時点で全て中止となったが、
わずかにタイミングがずれておれば、樺太からの避難民の大部分は稚内港で立ち往生した可能性があったのだ。

いや、すでに避難民に対する稚内発の列車の輸送能力は限界を越えていた、
客車どころか石炭車、貨車など、動ける車両は全て臨時列車のダイヤを組んで動かしており、
乗せられるだけ乗せた避難民の手に握られていたのは、稚内駅で臨時に発行した、行先が白紙の切符だった。

8月20日、ソ連軍は樺太・真岡を占領、8月23日には大泊に達すると見込まれた。

8月23日、ソ連側から「連絡船の通行の安全は保証しない」と通告があり、
大泊発22時の最終の連絡船には推定で1万人が乗船。
大泊警察署から「航行途中、ソ連に拿捕される危険性がある」との達があって4000人が下船したが、
神の助けというべきか、「宗谷丸」の拿捕に向かったソ連艦艇は荒天のため足止めを食い、
最後の連絡船「宗谷丸」は最後の6000人の避難民を乗せ、稚内に入港。

大泊から最後に稚内に入った通信文は「ナミダ、ナミダ、ナミダ」であったという。

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618 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/12(金) 09:56:35.53 ID:???
終戦直前だから、今ぐらいの時期の話

艦砲射撃の落下距離あたりに俺の家の畑があった
軍需工場狙うのが1゚違うとうちの畑だったらしく、よく着弾していた
終戦間近が一番ひどかったんだけど、当時畑にはトウモロコシが大豊作
男手がいなかったからどうしようと悩んでたのに
着弾した砲弾の破片でトウモロコシの茎が切れまくり
艦砲射撃が止んで畑に行けば実を拾えばいいだけになっていた
被害はあったけど、豊作だったからプラマイゼロ
人生で一番楽な収穫だったとばあちゃんが言ってた

今年も豊作なんだが、足腰弱くなって収穫がしんどいばあちゃんが
「艦砲射撃こねぇかなぁ」って呟いてる



619 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/12(金) 09:57:29.05 ID:???
こねぇよw

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589 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/07/29(金) 23:50:05.60 ID:???
似たようなスレに何度も書いてると思うけど、もう一度。

俺の祖父母の初夜は、東京大空襲の日だったらしい。
陸軍さんの飛行場の傍に住んでたらしいが、とにかく、
(爆弾で死ぬはいつだってできる!でもl、セックル=童貞捨てるのは今日しかない!)
とチンコビキチーーンした祖父が強行。

ガチ中田氏したらしい。


590 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 10:52:25.05 ID:???
で、命中弾だったんだな?


591 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 11:57:34.88 ID:???
「第二次攻撃の要 ありと認む」ということで
即 二回戦が始まったとかw


592 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 15:12:13.85 ID:???
子孫を残そうという本能だよなあ。

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87 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/02/22(火) 22:06:15.85 ID:???
故・三代目江戸屋猫八が従軍していたころの話。
南方へ向かう途中、寄港した港町で自由行動が許された。
日本から遠く離れた南の国の港なのになんと「氷」の文字が書かれたお店があるではないか!

「やった。ウジキントキとまで書いてある。久しぶりに食べれるぞ」
喜んで店に入ったがいいは、経営しているのは現地の人。
出された「ウジキントキ」は日本のうじきんときにさらに現地の果物や
あまーいシロップがかけられたもので食べてがっかりしたそうな…。

内地では物資も不足していたのに南方は豊かだなと思う反面
あんなのウジキントキじゃないと残念に思って船に戻ったそうです。


88 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/02/22(火) 23:14:44.17 ID:???
>>87
俺も東南アジアで日本のかき氷だと思って注文したら何やらいろんなものが乗ったものが出てきてびっくりしたなあ。

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57 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 01:06:21 ID:???
ばあちゃんから聞いたほのぼの話

信心深い父親は空襲警報が鳴ると逃げずに、いつも神棚の前で一心に祈り続けていた
ある日、いつもと同じように家族は防空壕へ、父親は神棚の前へ
防空壕に着いてしばらくすると家の方から凄い音が聞こえてきた
飛行機の音が聞こえなくなってから警報解除をまたずに家へと急ぎ帰った
外から見ると家はなんともない
中に入り神棚の前にいるはずの父親の様子を見に行くと
正座して神棚に向かう父親の真後ろ拳二つ分ぐらいのところに不発弾が落ちていた
「大丈夫か?」と家族が慌てるなか父親が一言


「あ~神様に祈ってて気づかんかった」


戦後、シベリア抑留されてた兄も大和に乗ってた兄も特攻に志願した兄も生きて帰ってきたから
祈りすぎて死神様には嫌われた一家と近所には言われたそうだ


58 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 08:51:14 ID:???
一億国民がみなその父親さん並の信仰心持ってたら日本は戦争に勝てたなw


59 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 09:04:46 ID:???
>>58

そもそも戦争してなさそうだなw

「やべーよ、ロシア人の南下欲まじやべーよ。」
「よし、神様に祈ろうべ。」


日露戦争は起こらず、朝鮮半島あたりで勢力が均衡して
そのまま数十年平和。

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908 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2010/11/20(土) 14:27:25 ID:???
では、小学校の頃校長に聞いた話

昭和20年のある日、関東地方全域が艦載機の襲撃を受けた
日本の航空隊も全力で迎え撃ち、関東上空のあちこちで壮絶な大空中戦が行われた
が、うちの町は軍事施設が無かったため大規模な襲撃は受けず、遠くで響く爆発音や機銃音 
飛行機が急旋回する金切り音を聞いたり、上空を通過していく敵味方の編隊を眺めるだけだった

いい加減敵機が引揚げ始めたその日の夕方、当時生徒だった校長は、校庭全面を改造した芋畑で作業していた
すると紛れもない味方戦闘機の爆音が 見れば一機がよろめくようにこっちにやって来る
生徒も先生も大喜びで、全員芋畑の真ん中に集まって手を振りだし 飛行機も上空をぐるぐる旋回しだした

が、飛行機はふらふらと上空から離れていくと、いきなり超低空で学校の隣の農家の畑めがけて突っ込んできた
飛行機はそのままバリバリバリと轟音と共に不時着した
行ってみると操縦席で搭乗員が血まみれになって気絶している 機体全面には無数の弾痕が
先生たちが大慌てて搭乗員を校舎に運び、近隣住民と手厚く看護 そのおかげで搭乗員は息を吹き返した

その搭乗員曰く
「空中戦で被弾して、どうせなら畑や田んぼより広いところに不時着したいと思って、見えた国民学校に来た
 が、校庭でみんなが集まって手を振ってるもんだから危なくて不時着できない 上空で待っていてもどく気配が無い
 そうこうするうちに頭がフラフラしてきて、燃料ももう無い 仕方なく隣の畑に不時着した 
やっぱり畑は狭く、止まりきれず垣根に突っ込んで頭を打った」と

せっかくの好意が仇になった例
 

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