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軍事板「戦時中、戦場でのほのぼのとした話」スレまとめサイト
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308 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2007/04/19(木) 21:49:50 ID:???
駆逐艦雷は潜水艦の漂う中要救助者を探しマクってたのか・・・・・
すんげえ悠長な時期も日本軍にあったんだな。


309 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2007/04/19(木) 22:03:52 ID:???
>>308
これの話か。
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog458.html

(引用)
■1.「旧敵との和解」■

1998(平成10)年4月、英国では翌月に予定されている天皇の英国訪問への
反対運動が起きていた。その中心となっていたのは、かつて日本軍の捕虜と
なった退役軍人たちで、捕虜として受けた処遇への恨みが原因であった。

その最中、元海軍中尉サムエル・フォール卿がタイムズ紙に一文を投稿した。
「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和解することに関心を抱いているのか、
説明申し上げたい」と前置きして、自身の体験を語った。

大東亜戦争が始まってまもなくの1942(昭和17)年2月27日、ジャワ島北方のスラバヤ沖で
日本艦隊と英米蘭の連合部隊の海戦が始まった。連合部隊の15隻中11隻は撃沈され、
4隻は逃走した。3月1日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦
「エンカウンター」の乗組員4百数十名は漂流を続けていたが、翌2日、生存の限界に達した所
を日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に発見された。

「エンカウンター」の砲術士官だったフォール卿は、「日本人は非情」という先入観を
持っていたため、機銃掃射を受けて最期を迎えるものと覚悟した。

ところが、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、漂流者全員422名を
救助したのである。艦長・工藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で
健闘を称え、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」と
スピーチしたのだった。そして兵員も含め、全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。

このフォール卿の投稿によって、以後の日本批判の投書はことごとく精彩を欠くことになった。

■2.「オラが艦長は」■

工藤が駆逐艦「雷」の艦長として着任したのは、昭和15(1940)年11月1日だった。
身長185センチ、体重95キロと大きな体に、丸眼鏡をかけた柔和で
愛嬌のある細い目をしていた。「工藤大仏」というあだ名を持つ温厚な艦長に、
乗組員たちはたちまち魅了されていった。

着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」と
いうものだった。士官たちには「兵の失敗はやる気があってのことであれば、
決して叱るな」と口癖のように命じた。見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と
間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。

酒豪で何かにつけて宴会を催し、士官と兵の区別なく酒を酌み交わす。兵員の食事に
よく出るサンマやイワシが好きで、士官室でのエビや肉の皿を兵員食堂まで持って行って
「誰か交換せんか」と言ったりもした。

2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは「オラが艦長は」と自慢するようになり、
「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになった。
艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。

■3.海軍兵学校・鈴木貫太郎校長の教育■

工藤艦長は、海軍兵学校51期だったが、入学時に校長をしていた鈴木貫太郎中将の
影響を強く受けた。鈴木はその後、連合艦隊司令長官を務めた後、昭和4年から8年間も
侍従長として昭和天皇にお仕えした。その御親任の厚さから、終戦時の内閣総理大臣に
任命されて、我が国を滅亡の淵から救う役割を果たす。[a,b]

工藤ら51期が入学した時に校長に着任した鈴木は、
従来の教育方針を以下のように大転換した。

 ・鉄拳制裁の禁止
 ・歴史および哲学教育強化
 ・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

日本古来の武士道には鉄拳制裁はない、というのが、その禁止の理由だった。
工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、最上級生になっても、下級生を決して
どなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導していた。歴史および哲学教育の
強化の一貫としては、鈴木自身が明治天皇御製についての訓話を行い、

四方の海皆はらからと思ふよになど波風に立ちさわぐらん

の御製から、明治天皇の「四海同胞」の精神を称えている。
工藤の敵兵救助も、この精神の表れであろう。
   
■4.日本海軍の武士道■

大東亜戦争開戦の2日後、昭和16(1941)年12月10日、日本海軍航空部隊は、
英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と
戦艦「レパルス」を撃沈した。駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の
乗組員たちの救助を始めたが、日本の航空隊は一切妨害せず、それどころか、
手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送った。

さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰投するさいにも、日本機は
上空から視認していたが、一切、攻撃を差し控えていた。

こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させた。工藤の敵兵救助とは、
こうした武士道の表れであり、決して、例外的な行為だったわけではない。

昭和17(1942)年2月15日、シンガポールが陥落すると、英国重巡洋艦「エクゼター」と
駆逐艦「エンカウンター」は、ジャワ島スラバヤ港に逃れ、ここで、アメリカ、オランダ、
オーストラリアの艦船と合同して、巡洋艦5隻、駆逐艦9隻からなる連合部隊を結成した。

この連合部隊に、日本海軍の重巡「那智」「羽黒」以下、軽巡2隻、駆逐艦14隻の
東部ジャワ攻略部隊が決戦を挑んだ。日本海海戦以来、37年ぶりの艦隊決戦である。

2月27日午後5時、海戦が始まった。当初、「雷」は開戦以来、敵潜水艦2隻、哨戒艇1隻
撃沈という戦闘力の高さを買われて、艦隊後方で指揮をとる主隊の護衛任務についていた。
そこに「敵巡洋艦ヨリナル有力部隊発見、我交戦中」との信号を受けて、主力は戦場に
向かった。しかし、到着した時には、敵艦隊はスラバヤに逃げ込んで、肩すかしを食らった。

2月28日、「エクゼター」は被弾箇所の応急修理を終え、「エンカウンター」と
米駆逐艦「ポープ」を護衛につけて、インド洋のコロンボへと逃亡を図った。しかし、
3月1日に「雷」の僚艦「電(いなづま)」を含む日本の駆逐艦隊に取り囲まれ、攻撃を受けた。

■5.「沈みゆく敵艦に敬礼」■

午後12時35分、「電」は指揮官旗を翻す「エクゼター」に砲撃を開始した。「エクゼター」は
ボイラー室に被弾して、航行不能に陥った。午後1時10分、「撃ち方止め!」の号令が下され、
敵艦に降伏を勧告する信号が発せられた。

しかし、艦長オリバー・ゴードン大佐は降伏せず、マストに「我艦を放棄す、各艦適宜
行動せよ」の旗流信号を掲げた。ここで「エクゼター」の乗組員たちは、次々と海中に
飛び込み、日本艦隊に向かって、泳ぎ始めたのである。「エクゼター」では、士官が兵に
対し、「万一の時は、日本艦の近くに泳いでいけ、必ず救助してくれる」といつも話していた。
「プリンス・オブ・ウェールズ」沈没の際の日本海軍の行動が記憶にあったのだろう。

「電」は、傾いた「エクゼター」に魚雷を発射して、とどめを刺した。「電」艦内に、「沈みゆく
敵艦に敬礼」との放送が流れ、甲板上の乗組員達は、一斉に挙手の敬礼をした。その敬礼に
見送られて、「エクゼター」は船尾から沈んでいった。

まもなく「海上ニ浮遊スル敵兵ヲ救助スベシ」の命令が出された。救命ボートに乗っている者、
救命用具をつけて海面に浮かんでいる者に対して、「電」の乗組員は、縄ばしごやロープ、
救命浮標などで、救助にあたった。蒼白な顔に救出された喜びの笑みをたたえ、
「サンキュウ」と敬礼して甲板にあがってくる者、激しい戦闘によって大怪我をしている
者などが、次々と助け出された。

甲板上に収容された将兵には、乾パンとミルクが支給された。
「電」によって救助された「エクゼター」乗組員は376名に上った。

■6.重油の海での漂流■

駆逐艦「エンカウンター」は、旗艦「エクゼター」が停止した時、その「各艦適宜行動せよ」という
命令に従い、単独での航行を続けた。艦長モーガン少佐は「エクゼター」の乗組員を救助
すべきかと、一瞬迷ったが、「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」沈没の際の
日本海軍の行動を覚えていたので、こう決断したのである。
    
しかし、その「エンカウンター」も日本艦隊の追撃を受け、8千メートル東方の海域で、
30分後に撃沈された。この時、20歳の砲術士官だったフォール卿は、こう証言している。

艦長とモーターボートに乗って脱出しました。その直後、小さな砲弾が着弾して
ボートは壊れました。・・・この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。

間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。固唾をのんで
見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。[1,p251]

この時は、米蘭の潜水艦がジャワ海で行動しており、敵の攻撃をいつ受けるか分からない
状況では、国際法上は、海上遭難者を放置しても違法ではない。

「エンカウンター」の乗組員たちは、自艦から流出した重油の海につかり、多くの者が
一時的に目が見えなくなった。その状態で、約21時間も漂流した。

■7.「これは夢ではないか」■

そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。見張りが「漂流者400以上」と報告した。
工藤艦長は敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、「救助!」と命じた。

「雷」の手の空いていた乗組員全員がロープや縄ばしご、竹竿を差し出した。漂流者たちは、
われ先にとパニック状態になったが、青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然と
順番を守るようになった。

重傷者から救う事になったが、彼らは最期の力を振り絞って、「雷」の舷側に泳ぎ着いて、
竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。
甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかける。
この光景を見かねて、何人かの乗組員は、自ら海に飛び込み、立ち泳ぎをしながら、
重傷者の体にロープを巻き付けた。

こうなると、敵も味方もなかった。まして同じ海軍軍人である。甲板上で「雷」の乗組員の
腕に抱かれて息を引き取る者もいた。無事、救出された英兵は、体についた重油を乗組員が
布とアルコールで拭き取ってやった。新しいシャツと半ズボン、靴が支給され、熱いミルクや
ビール、ビスケットが配られた。

フォールズ卿はこう回想している。

私は、まさに「奇跡」が起こったと思い、これは夢では
ないかと、自分の手を何度もつねったのです。

■8.「今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである」■

間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられた。
すると、キャプテン(艦長)・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに
端正な挙手の敬礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。
キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。

諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。
私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争を
しかけたことは愚かなことである。[1,p258]

「雷」はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の
生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助した。水没したり、甲板上で
死亡した者を除いて、午前中だけで404人、午後は18人を救助した。
乗組員約150名の3倍近い人数である。

翌日、救助された英兵たちは、オランダの病院船に引き渡された。移乗する際、士官たちは
「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、またウィングに立つ工藤に
敬礼した。工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をした。兵のほうは気ままなもので、「雷」に
向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表していた。

■9.「サイレント・ネービー」の伝統■

フォール卿は、戦後、外交官として活躍し、定年退職後、1996(平成8)年に自伝
『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。

平成15(2003)年10月、フォール卿は日本の土を踏んだ。84歳を迎える自身の
「人生の締めくくり」として、すでに他界していた工藤艦長の墓参を行い、遺族に
感謝の意を表したいと願ったのである。しかし、あいにく墓も遺族も所在が分からず、
フォール卿の願いは叶えられなかった。

フォール卿から依頼を受けて、[1]の著者・恵隆之介氏は3ヶ月後に、遺族を見つけ出した。
工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切
軍務のことは口外しなかった」と落涙した。サイレント・ネービーの伝統を忠実に守って、
工藤中佐は己を語らず、黙々と軍人としての職務を忠実に果たして、静かにこの世を
去っていったのである。
(文責:伊勢雅臣)


310 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2007/04/19(木) 22:19:19 ID:???
さっきフジTVでみてた。
こんな気持ちのいい人間ならさぞかしみにくい終戦間際はつらかっただろうな

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311 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2007/04/19(木) 22:31:59 ID:???
その昔、日本海を運航していた、ある貨物船の船長。
船足がわりあいと速いフネだったため、
他の船を見つけると並んで航行、全速力を出し「公海グランプリ」を挑むのが趣味。

「ミンスク」には無視されたのだが、
アメリカ海軍のフリゲートあたりだと、たまにノッてくる艦がいたとか。

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270 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2007/04/10(火) 10:26:24 ID:???
ブルボン王朝時代の勇猛な近衛騎兵は、華麗な軍装に化粧をしてさらに香水プンプンなので
敵陣まで香水の匂いが漂っていき、敵は香水の匂いをかぐと強敵がいると恐れたそうな
イェニチェリの「戦鍋旗」とか、フス派軍の賛美歌「汝らは神の戦士なり」などが敵を恐れさせたのは解るが
「香水」というのが、やはりフランスw

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261 名前:名無し三等兵[uho] 投稿日:2007/04/02(月) 10:14:39 ID:???
「インパール作戦の時、シエウボの飛行場の警備をした。
毎日、敵機が飛んできた。
ある時、敵機内でマフラーを振っている女がいた。
その女が俺達に機銃掃射するのよ。あれにはまいったなァ。」

近著「戦争聞き歩き」新風舎 P.280-283 斎藤力氏の談話。

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260 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2007/03/28(水) 21:05:31 ID:???
1953年7月27日、朝鮮戦争休戦協定の日。
休戦協定に従い、その日の午後10時、全戦線にわたって砲爆撃は止んだ。

その翌早朝、ある戦線の塹壕から飛び出した、ひとりの米陸軍黒人兵が、
手に持ったトランペットで、静かにジャズを吹きだした。
おい、ちょっと待て、と、黒人兵の戦友が塹壕から彼を追って飛び出る、
朝モヤの中に、ふたりの中国兵が見えたからだった。

しかし、中国兵は黒人兵のトランペットに合わせて、腰をふり、踊りだした。
続いて十数人の中国兵が出てきたのだが、
中国兵はランニングシャツ姿で、武器も持っておらず、静かに、
あたりに散らばった戦友の死体を片付け始めた。
そうなると米陸軍兵も出てきて、同じように戦場の片付けを始めたのだが、
彼我の距離は50メートル、そこらは散らばった手榴弾の不発弾だらけ。
それでも米陸軍兵は上半身裸になり、楽しそうにすら見える様子で、作業を続けていた。

・・・この様子をわずかに離れて見ていたのは韓国軍の部隊で、
こちらはまだ銃を構え、武装も解いていなかった。
しかし、緊張を解かない指揮官をよそに、
韓国軍兵士はにこやかに、その様子を眺めていたという。

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244 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2007/03/25(日) 11:51:32 ID:Va/FOeFO
宮古島へ連日の空襲が途絶えたと思ったら、
上陸用舟艇でアメリカ兵が上陸してきた。

アメリカ兵が両手を上げて歩いてくるので、
警備隊はアメリカが降参したのだと思った。

アメリカ兵は紳士的な態度であり、通訳も居なかったため
守備隊は日本が勝ったことを疑わなかった。

とりあえず腹が減っていたので、
食う手真似で指図をしたらパンをくれた。

その後、もっと食料を欲しいと言ったら、
武器を見せて置けと手真似するので、食料と交換するのだと思って、
ニコニコと並べ、いろいろもらった。

やがて次の日、隣の島から連絡兵が来て日本の降伏を知らせられて
守備隊員は、みんなびっくり仰天。
てっきりアメリカが降伏したのだと思い込んで、威張っていたのだ。



249 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2007/03/25(日) 16:21:14 ID:Va/FOeFO
>>244-246 実話だよ。

アメリカ兵が手を上げて近づいてきたのは、降参していたのでなく、
俺たちに手を上げろの意味だったと、後で気づいた。
とにかく腹ぺこだった。
武器を集めたのが武装解除だったと気づいたのも、しばらく後のことらしい。

「戦争聞き歩き」(新風舎)p.58-161 山川幸一氏の談話。

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187 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2007/02/05(月) 17:05:30 ID:???
ほのぼのと言えるかどうかだが・・・

大陸の奥深くに派遣された陸軍部隊に10人ほどの補充兵が配属された。
配属された、と簡単にいってもそこは帝国陸軍である。
トラックで送ってもらえるわけでもなく大八車に荷物を積み、
徒歩でエンヤコラと悪路を部隊を追いかけて移動するハメに。
そして例の如く食料の補給なんてほとんど無し。
引率の新米士官の私物の時計や皆の衣類を物々交換して食料を得、
ズタボロの格好で部隊にたどり着くと先輩たちが
「どうやってあそこを通ってきたんだ、あそこはゲリラの支配地域だぞ」

ボロボロになりながらも略奪もせず品行方正だった彼らは
どうやらゲリラにお目こぼしをしてもらえたようだ。
もっともボロボロすぎて兵士に見えなかったのかも、とは配属先の中隊長の弁。

>185
交通事故で死傷した将兵の数は馬鹿にできない数なはずだぞ
確か朝鮮戦争でも米軍の司令官が死んでなかったか?

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本当にあった怖い名無し :2007/02/03(土) 01:53:28 ID:bplTntaT0
実家の祖父から何回も聞かされた話だが、戦時中南方に行ってたらしい。
そこの前線基地みたいなところで、部下思いの結構人格者の上官がいたんだが、ある日そいつが
輸送トラックに轢かれて事故死してしまった。それで爺さんが親しかったんで形見にそいつの銃
(長い奴じゃなく短銃)をもらったらしい。それでしばらくして終戦になり、日本に帰るまで結構長い期間そこに
留まらなくちゃならなかったんだけど、その時発作的に自殺しようと思い立ったんだって。
爺さんは遊び人で、あまり愛国的な方じゃないんで、たぶん、自分の勤めてた会社が倒産してショックで自殺、
みたいな感覚だったと思うけどね。で死のうと思っても切腹する度胸は無い、銃は武装解除で回収された後、
で結局その上官の遺品の拳銃しか手元に無く、それで自分のこめかみを撃とうとした。
覚悟を決めて引き金を引くと、不発、もう何回やっても不発。で死にきれず悶々とした日々を
過ごす内に帰りの船が来て帰国、死ぬ気も自然と失せたらしい。
その祖父も結構前に他界したが、死ぬまで「上官が私に死ぬなと伝えてくれた」って信じてた

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124 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:2007/01/10(水) 14:48:27 ID:???
日露戦争の旅順陥落のときに日露両兵士が大喜びで抱き合いながら
旅順城内の酒屋でしこたま呑んだ、という話とかってガイシュツかい?


125 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2007/01/10(水) 15:36:25 ID:???
日陸軍と捕虜の露陸軍将校同士がテーブルでお茶?してる写真とかならあるけど、またそれとは違うか



127 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2007/01/10(水) 16:07:19 ID:???
>>125
ああ、その写真見たことある
不思議でもあり、微笑ましくもある写真だよね

ちなみに旅順で呑んだ、って話はまだ正式に露軍が降伏していないにも関わらず、
日露両兵士が互いの塹壕から飛び出して、戦闘が終ったことを互いに喜び合った
中にはまだ敵地であるはずの旅順城内に繰り出し、朝まで酒を浴びるように呑んだ、
という話

日露戦争は敵味方の交流が頻繁に行われていたようだね
停戦日には酒やタバコを交換しあったっていうし

>>126
そういう話大好き

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126 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2007/01/10(水) 15:44:02 ID:???
 太平洋戦争初頭、フィリピンはコレヒドール島攻防戦でのエピソード。
 ある日、日本軍砲兵たちの間で、米軍陣地にはためく星条旗を、那須与一の扇撃ちよろしく、砲弾で撃ち落としてみないか?…などという話が持ち上がった。
 勝ち戦の余裕も手伝ってか、上官の許可もスンナリ降り、さて数発の失中の後、見事に砲弾が旗竿の頭ごと、星条旗を粉々に吹き飛ばした。
 ヤンヤの歓声に沸き立つ日本軍陣地。
 …と、ひとりの若いアメリカ兵が、飛び交う弾雨を冒して駆け出し、狙撃の危険も顧みずに旗竿によじ登り、吹き飛んだ竿のてっぺんに新たな星条旗を結わえつけた。
 猪口才な、と、再び砲撃しようとする兵たちを上官は制し、敵兵の勇気と意地に敬意を表して、そのまま置くこととした。
 …その星条旗は、コレヒドール陥落の日まで、硝煙に揉まれて南国の空にはためき続け、苦闘する米軍将兵を鼓舞し続けたという。

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