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716 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/05/13(火) 19:43:28 ID:???
394 名前: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 投稿日: 2008/05/10(土) 23:44:21.67 ID:xvjhmZ2e0
ある日爺ちゃんとテレビを見ながら飯を食っていると世界不思議発見だか何だかで
ラバウルが紹介されたんだ
でレポーターが現地の案内の人のおっさんに話しかけてると突然爺ちゃんが
「あいつ!○○だ!○○だ!」と叫び出した
ついにボケたかと思ったがテロップに本当にその名前が出た
ビックリして爺ちゃんに詳しい話を聞くと、戦時中はラバウルにいてそのテレビに出てた当時は
子供のおっさんに日本語を教えたり遊んだりしてたらしい
そしてテレビでおっさんが当時の事を話した
おっさん「私が病気にかかって高熱に苦しんでいると日本兵が当時貴重だった薬をくれた」
爺ちゃん「俺だ!俺だ!それ俺だ!俺!俺の事だ!」
とてもうるさい
いい話でこれで爺ちゃんがテレビに出るんじゃないとか思ってたが
爺ちゃん「あれ薬じゃなくて歯磨き粉だったんだわ、あいつ馬鹿で信じてやがるwwww」
俺は誰にも言わないでおこうと決めた
702 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/05/05(月) 17:39:18 ID:???
61 名前:劉月侠 ◆RPLwh/ddCk [riuyuexia@yahoo.co.jp] 投稿日:2008/05/05(月) 16:29:56 ID:bQ0pa8080
>>58
それはちと内容がゴッチャになっとるな。日本の兵士が缶詰くれるきっかけ
になったのは柔道の試合や(笑
62 名前:劉月侠 ◆RPLwh/ddCk [riuyuexia@yahoo.co.jp] 投稿日:2008/05/05(月) 16:41:11 ID:bQ0pa8080
民國29年(1940年)、抗日戦争を戦っていた劉雲樵は日本軍の捕虜となり、
山西運城監獄に一ヶ月あまり収容された。
収容所では日本軍の兵士が柔道の稽古をしていたが、よく捕虜の中国兵が実験台
というか稽古相手にされていた。イジメみたいなもんやな。ホンマは捕虜虐待とい
うことになってしまうからあかんのやろうけど。
中国兵はみなロクなものを食ってないから体力も落ちてるし、日本兵相手にマジに
なってもかえってイジメられるだけやから、投げられるままやった。
ところが劉雲樵は自分の正体が天字一号ということはもうバレていて、近いうちに
間違いなく処刑されるやろうと思ってたんで、やけくそで日本兵をみな投げ飛ばし
てしもうた。
ところが天字一号のことはバレてはおらんかったようでな、劉雲樵は日本軍からも
「なかなか勇気があるし武道の腕前も確かだ!」と一目置かれるようになり、それ
で缶詰云々・・・というわけや(笑
63 名前:劉月侠 ◆RPLwh/ddCk [riuyuexia@yahoo.co.jp] 投稿日:2008/05/05(月) 16:46:12 ID:bQ0pa8080
ちなみにこれで日本軍の劉雲樵に対する監視がちと緩んだらしく、しばらくして
劉雲樵はスキを見て軽功で監獄の塀を飛び越え(“壁虎功”となっとるから、実際
には忍者のように壁を這い上がっていったものと思われる)、脱走に成功したということや。
675 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/04/25(金) 23:25:58 ID:???
陸上自衛隊某施設隊は年に1回、地元の川の河原で架橋訓練を行い、
訓練中の日曜には訓練の一般公開と、装備品展示を行っている。
ある年の訓練公開で、前の年には公開されていた、
野戦入浴機材、ことテント風呂と、野外炊具1号がない。
オレ「今年はテント風呂の公開はないんですか?野外炊具1号でのブタ汁試食とかは?」
隊員「あ、今回は、全部新潟に行っちゃって出払ってるんですよ」
・・・その年、2004年に新潟を襲った中越地震の災害出動で、
この部隊からも救援が派遣されていたことを思い出した。
オレ「じゃ、隊員の方の訓練中のお風呂なんかどうするんですか?」
隊員「交代で銭湯に行ってますよ、たまには銭湯もいいものですねえ」
オレ「食事はどうやって・・・?」
隊員「もうちょっと小さな野外炊具があって、あとは大鍋でなんとかやってます。
・・・新潟で困っておられる方たちのことを思えば、そんなの不便のうちに入りませんよ、がっははは」
新潟で困っているたくさんの方たちと、その方たちのために派遣されている隊員の方たち、
オレ、最初に深く考えない質問をしたことが恥ずかしかった。
669 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/04/23(水) 01:45:28 ID:???
我が祖父はシベリア帰り。
戦時中は中国大陸で伝令役をやっていたようだ。
(本人が戦争についてはあまり語らなかったので詳細不明)
皆が徒歩で行軍している横を馬やジープで駆け抜けるのは楽しいと言っていたなぁ。
そういえば、帰国してから公安が度々訪ねてきたと聞いたがそれってやっぱり・・・なんですかね?
670 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/04/23(水) 02:20:51 ID:???
赤化の恐れありと見られたんだろうな。
別にシベリア帰還兵には珍しい事ではないが。
そういう経験もあって多くは語りたくは無いのだろう。
671 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/04/23(水) 13:05:41 ID:???
>>669
あまり悪口は言いたくないが、他の帰還兵に恨まれていて、ちくられた口なのかものな。
曰く、「アイツは転向者で、俺達を苛めやがった。」「アカに洗脳されてやがるぞ。」
なーんてね。 公安も抑留者全員を訪ねたりしないし、何か抑留中にあったんだろ、きっと。
672 名前:669[sage] 投稿日:2008/04/23(水) 13:07:04 ID:???
>670
やっぱりそうなんですね。
強制労働の傍ら、マルクスとエンゲルスの著書を読まされ、共産主義の勉強もさせられていたようです。
そのせいか、自分の子供や孫が思想などの勉強をするのを非常に嫌っていました。
祖父は貧乏で小学校卒ですが、頭は悪くなかったのでロシア語も話すことができたようです。
これだけでは何なので、悲惨な強制労働のチョットほのぼのな話
パン一欠片程の食料で過酷な鉄道敷設工事をさせられ、
レールや枕木すら跨いで超えられないほど衰弱した状態に陥っていた捕虜の日本兵達。
それでも生き延びるために、夜中に鳥小屋や豚小屋に忍び込んで餌を食べていたそうです。
「そんな物は口に出来ない。」と食べなかった者が、夜明けには冷たくなっていたと言っていました。
そんな状況の中、強制労働に従事していると、周囲の民間人(農家?)に呼ばれて、
食事を与えてもらったことが度々あったそうです。
和やかに談笑しながら食事したこともあるとかないとか・・・。
チョットホノボノ・・・かな?
666 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/04/22(火) 01:47:40 ID:???
>>665
全然ほのぼのしとらんやん!
では、口直しに。
父方の祖母は戦時中田舎に住んでたそうで、空襲に遭った経験はなかったそうだ。
田舎だから食料も充分にあり、そんなに辛いこともなかった。
夜に街の方をみると花火みたいな光が舞っていて綺麗だったそうだ。空襲で焼夷弾
が落ちてたんだな。
667 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/04/22(火) 10:57:44 ID:???
うちの無くなった祖母は戦中・富山で空襲体験。
毎年、夏の花火大会に誘っても、頑として固辞しとったな。
花火打ち上げの音響が、焼夷弾投下の音と酷似なんだと。
トラウマだったんだな (´・ω・`)
668 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/04/22(火) 13:46:59 ID:???
スターマインとかの音かな?よく雨の音に例えられるけど、
大阪大空襲経験者の祖父はこの花火の音がそっくりだと言ってたな。
643 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/04/12(土) 04:05:20 ID:???
890 :おさかなくわえた名無しさん :sage :2007/05/30(水) 19:05:41 (p)ID:isQOOzLg(3)
84 : :04/02/18 12:51
何年前だったかな。10年以上前か・・・
テレビの深夜枠で結構ディープなドキュメンタリーやってたんだ。
高砂義勇隊の台湾ジジイが二人で戦後初めて靖国神社に参拝するって
内容だったと思う。一切日本語はしゃべらなかった。(編集でカットしてたのかな)
台湾ジジイ二人でくしゃくしゃの戦闘帽かぶってよろよろだ。
背中曲がってふうふう言いながら本殿へ歩いていくわけ。
でな、本殿へ近づくにつれてジジイの目が潤んでくるんだ。
そんで、引きつってた顔はだんだんと温和になってくるんだ。
そこで全編通じてジジイがたった一言発した日本語。
「おい!・・・会いにきたぞ!・・・」
ジジイの目に何が見えてたのか解からんが、
本殿から「なんだ藻舞ら、ジジイになりやがって」
とか聞こえてたンかも知れんな。あのシーンは忘れられん。
617 NAME:名無し三等兵 MAIL:sage
12 名前:('A`)[] 投稿日:2008/03/10(月) 12:48:58 0
大戦中にドイツ軍の捕虜収容所に居たフランス兵たちのあるグループが、長引く捕虜生活の
苛立ちから来る仲間内の喧嘩や悲嘆を紛らわすために、皆で脳内共同ガールフレンド(?)を
作った話を思い出した。
・・・そのグループが収容されてた雑居房のバラック、その隅に置かれた一つの席は、
13歳の可愛らしい少女がいつも座っている指定席だった。(という、皆のイメージ)
彼らグループの中で、喧嘩や口論など紳士らしからぬ振る舞いに及んだ者は誰であろうと、
その席にいる少女に頭を下げ、皆に聞こえる声で非礼を詫びなければならない。
着替えの時は、見苦しい姿を彼女に見せぬように、その席の前に目隠しの布を吊り、
食事の時は、皆の分を分け合って彼女の為に一膳をこしらえ、
予め決められた彼女の「誕生日」やクリスマスには、各自がささやかな手作りのプレゼントを
用意し、歌でお祝いをする。
・・・最初は慰みのゲームのようなものだったのが、皆があまり熱心になると、
監視のドイツ軍までもが、彼らが本当に少女を一人かくまっているものと勘違いして、
彼らの雑居房を天井裏まで家捜しするという珍事まで起こった。
だが、厳しい捕虜生活の中で、他の捕虜たちが衰弱して病死したり発狂や自殺したりする中、
そのグループは全員が正気を保って生き延び、戦後に揃って故国の土を踏んだという。
ほの・・・ぼの・・・?
ソースも書いてないしネタかな?
DATE:2008/03/31(月) 21:23:18 ID:???
576 名前:1/2[sage] 投稿日:2008/03/18(火) 00:45:16 ID:???
祖母から聞いた話。
大分ボケてきてるのでどの程度信憑性があるのかは
分からないんですが…。
祖母は昔、和紙とこんにゃくで風船をつくる工場で
働いてたらしい。
祖母に聞いた限りでは風船というより小さな気球
みたいな感じで未だにそれが何だったのか祖母は
知らないらしい。
ただそれがアメリカにいくということだけは聞いて
いた祖母は戦争に行った父に届くかもしれないと
作った風船に手紙を忍ばせたそうだ(祖母の父が
いたのはアメリカではないが祖母は当時そう
思い込んでいた)。
手紙には○年間ずっと(話す度に数字が変わるから
不明瞭だが祖母の父が戦争に行ってる期間のこと)、
貴方の無事を祈っていたみたいな内容と祖母とその父の
名前だけだったそう(スパイに見られてはいけない
と考えたから)。
577 名前:2/2[sage] 投稿日:2008/03/18(火) 00:45:50 ID:???
勿論その後に不備がないか調べられるのでバレる。
最終点検をするのは絶対に軍の人間だったそうで、
偶然にもその軍人と祖母の父の名前が同じで
その上、祖母が書いた○年間という部分と
その軍人が工場で働いている期間が同じ。
その軍人は祖母からの恋文だと勘違いしてしまったそう。
祖母はその軍人が祖父であり、祖父は未だに勘違い
したままだから内緒だそう。
お互い決まった相手がおらず両家の反対がなかった為、
すんなり結婚までいったそうで、きっと強い縁が
あったのだと思ってるらしい。
私的にはのほほんとしたんだけど、こんにゃくと
和紙の風船が何に使われたのか気になって仕方ない。
578 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/03/18(火) 01:01:21 ID:???
そ・れ・は・ね
「ふがく」っていう飛行機だよ。
その名前から採って「ふ号作戦」って言われてたんだ。
すごいね。
579 名前:576[sage] 投稿日:2008/03/18(火) 01:15:59 ID:???
>>578
ありがとうございます。早速ググってきました。
長年の疑問だったのですっきりしました。
もう大分痴呆が進んでいるので分かってもらえるかは
分かりませんが祖母にも話してみます。
ずっと自分が何を作っていたのか知りたがっていたので。
580 名前:_[sage] 投稿日:2008/03/18(火) 04:32:01 ID:???
>>576さんへ
>>578は何故か大きく間違っとる。おまいさんの婆様が作っとったのは
おそらく風船爆弾(秘匿名称「ふ号兵器」)というじゃ。
下記のウィキペディア記事は多分大きくは間違っとらん。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE
> 製造
> 材質は和紙とコンニャク糊で、(以下略)
製造工場の情報も少々載っておるから読んで差し上げなさい。
ただし米本土に到達して女・子供を殺した云々は、読まぬ方がよろしかろう。
この兵器は色々な意味で大東亜戦争末期を象徴するものだから
様々に研究されている。ウェブにも沢山の情報があるぞ。ググりなされ。