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669 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/04/23(水) 01:45:28 ID:???
我が祖父はシベリア帰り。
戦時中は中国大陸で伝令役をやっていたようだ。
(本人が戦争についてはあまり語らなかったので詳細不明)
皆が徒歩で行軍している横を馬やジープで駆け抜けるのは楽しいと言っていたなぁ。
そういえば、帰国してから公安が度々訪ねてきたと聞いたがそれってやっぱり・・・なんですかね?
670 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/04/23(水) 02:20:51 ID:???
赤化の恐れありと見られたんだろうな。
別にシベリア帰還兵には珍しい事ではないが。
そういう経験もあって多くは語りたくは無いのだろう。
671 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/04/23(水) 13:05:41 ID:???
>>669
あまり悪口は言いたくないが、他の帰還兵に恨まれていて、ちくられた口なのかものな。
曰く、「アイツは転向者で、俺達を苛めやがった。」「アカに洗脳されてやがるぞ。」
なーんてね。 公安も抑留者全員を訪ねたりしないし、何か抑留中にあったんだろ、きっと。
672 名前:669[sage] 投稿日:2008/04/23(水) 13:07:04 ID:???
>670
やっぱりそうなんですね。
強制労働の傍ら、マルクスとエンゲルスの著書を読まされ、共産主義の勉強もさせられていたようです。
そのせいか、自分の子供や孫が思想などの勉強をするのを非常に嫌っていました。
祖父は貧乏で小学校卒ですが、頭は悪くなかったのでロシア語も話すことができたようです。
これだけでは何なので、悲惨な強制労働のチョットほのぼのな話
パン一欠片程の食料で過酷な鉄道敷設工事をさせられ、
レールや枕木すら跨いで超えられないほど衰弱した状態に陥っていた捕虜の日本兵達。
それでも生き延びるために、夜中に鳥小屋や豚小屋に忍び込んで餌を食べていたそうです。
「そんな物は口に出来ない。」と食べなかった者が、夜明けには冷たくなっていたと言っていました。
そんな状況の中、強制労働に従事していると、周囲の民間人(農家?)に呼ばれて、
食事を与えてもらったことが度々あったそうです。
和やかに談笑しながら食事したこともあるとかないとか・・・。
チョットホノボノ・・・かな?