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1 名前:窓際政策秘書改め窓際被告φ ★[sage] 投稿日:2008/06/07(土) 19:26:43 ID:???0
敵兵救助の“武士道”実践 救助された元英国士官が恩人艦長の墓参で来日へ
太平洋戦争緒戦のインドネシア沖海戦で艦隊が撃沈されて海上を漂流中、帝国海軍駆逐艦
「雷(いかずち)」に救助された元英海軍士官が、救助を指示した艦長の墓参のため7月にも来日する。
関係者は「日英間の新たな絆になる。来日実現に向け支援の輪を広げたい」と話している。
来日するのは元英海軍中尉、サムエル・フォール卿(89)。戦後、英国外務省に勤務し、
駐スウェーデン大使などを歴任。同時に、英国海軍OBの会合などで、「雷」の工藤俊作艦長
(海軍中佐)をたたえる講演を続けてきた。
ただ、工藤艦長の消息が分かったときは、すでに艦長が亡くなって数年が経過しており、それ以降も
公務員のため来日する機会に恵まれなかった。平成15年、ようやく初来日を果たしたが、日本で
工藤艦長の遺族の存在について答えられる関係者はいなかった。
このため、来日時にフォール卿と知り合った元自衛官で作家の恵隆之介さん(54)が、工藤艦長の
出身地の山形県などで調査。工藤艦長は妻、かよさんと2人暮らしで昭和54年に77歳で他界、
2人の墓が埼玉県川口市内にあることが判明した。
また、山形県では工藤艦長のおいが健在で、「雷」の関係者では、存命する士官でただ一人確認
できた元航海長の谷川清澄さん(92)=静岡県在住=が戦後も工藤艦長と親交が続いていたことも
分かった。
(以下>>2以降に急速潜航)
MSN産経ニュース(2008.6.7 14:00)
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080607/trd0806071405011-n1.htm
※前スレ※(★1の立った日時:2008/06/07(土) 15:44:05)
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1212821045/
2 名前:窓際政策秘書改め窓際被告φ ★[sage] 投稿日:2008/06/07(土) 19:27:02 ID:???0
(>>1よりブロー)
長年探し求めた命の恩人の“所在”が分かったフォール卿は「元気なうちに艦長の墓に参り、
関係者に礼を言いたい」と再来日を決意。66年前、自分と戦友らの救助に汗を流してくれた
谷川さんとの対面も楽しみにしているという。
恵さんは「フォール卿が話さなければ『雷』の英雄的な行動は間違いなく歴史の闇に消えていた」と
指摘。「艦長や乗員の行動は日英間の新たな友情の絆となるはず」とし、乗員の慰霊・顕彰碑建立の
ための事務局「故海軍中佐工藤俊作顕彰会」を立ち上げ、フォール卿の来日と墓前祭の実現に向けた
多方面からの協力も呼びかけている。
事務局への問い合わせは(電番略)。
1942(昭和17)年3月、オランダ領インドネシアの資源確保をめぐるスラバヤ沖海戦で、
英駆逐艦や僚艦が日本海軍に撃沈され、約450人の乗員が24時間近く海上で漂流。「雷」は
工藤艦長の号令のもと、全乗員が救助にあたり、重油まみれの将兵らを艦上に引き上げ、体を洗
い流して衣服や食料を提供した。工藤艦長は救助劇について家族や親類にも一切語らなかったという。
(をはり)
901 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/06/05(木) 23:52:46 ID:???
おれが仕事の関係で知り合った、中国の会社の社長。
中国の現地は上海で接待され、飲みに行くと、
酔った勢いの上司「こいつ、軍事マニアでねえ、軍隊のことに詳しいんですよ」
社長「あ、そうなの?おれ、もとは人民解放軍海軍の将校で、駆逐艦に乗ってたんだよ」
・・・上司よ、おいっ!と、内心思ったおれだった。
話の持って行き方によっては商談がボツになる、酒のペースを落として社長の顔色を見ると、
なんのことはない、酔った社長は問わず語りに話しだした。
「おれが海軍に入ったのは、貧乏でも頭だけあれば高等教育を受けさせてもらえるからさ。
家が貧しかったからなあ。
勉強させてもらってもなお、軍隊にいるやつなんてバカばっかだよ」
「水兵さんなんて、ほんのちょっとしか給料もらってないもんな、あれじゃ食えないよ」
「誰が戦争なんてしたいもんか、政府はバカだ、日本とケンカして何がいいことがあるんだ、そう思わないか?」
・・・「北国の春」を社長と男同士デュエットして歌いながら、考えることも多かった上海の夜だった。
885 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2008/06/04(水) 04:03:33 ID:xIoTL7vR
日本初の美人コンテストで一等に選ばれたのは、末広ヒロ子。
彼女は学習院女学院の中学三年生だったため、
下世話なことに参加するとはもっての外と、
学院長の乃木希典の逆鱗に触れ退学処分に。
だがその後、乃木は友人である野津元帥の嫡男と
彼女の縁を結び仲人を務めたのだった。
886 名前:茗蕪し三等兵[sage] 投稿日:2008/06/04(水) 05:23:20 ID:???
>>885 ちなみに昔の女学校(どの時代、どの段階か知らないが)には
「卒業面(そつぎょうづら)」という隠語があった。
美人は在学中に縁談がまとまって退学し、
不美人のみが卒業するということから出来た言葉。
ソースは井上章一の本(書名失念)
井上章一は著書「パンツが見える」で、当時の文献からさまざまな記述を集め
白木屋火災での「まくれるすそを押さえるためにロープを放して墜落死続出」
という伝説を否定している。まぁ古本屋で見つけたら買え。
863 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/05/31(土) 22:42:22 ID:???
海上自衛隊徳島航空基地の基地祭には、毎年P3Cが飛来する。
航空祭も終わりかけ、エンジンをかけたP3Cに、
何やらせっせとダンボール箱が積み込まれている、
遠くから見ていた観客は「あれは武器かな?それとも何か重要な物資?」
・・・しかし、望遠レンズで見ていたオレには、
箱に書いてある「鳴門金時いも」「徳島レタス」という字が見えていた。
あとで海上自衛隊員にその話をすると、
「そうなんですよね、野菜も最近は高いですから、
美味しくて安いのが買えるとなったら、まとめて買って帰るんですよ」
なお「鳴門金時いも」の美味さは徳島県の誇りだ。
798 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2008/05/26(月) 22:57:48 ID:nhsxSZ93
本人から直接聞いた訳ではないので、不明な点はお許し下さい。
父から聞かされた、亡き祖母のエピソードです。
戦時中、南方で従軍看護婦をしていた祖母はそこで終戦を迎えました。
当時祖母は婦長であり、日本赤十字の人間でもあったので、連合軍の命令により、
そのまま国際赤十字の一員として、他国の兵士も看る事になりました。
そこで祖母は連合軍から・・・
『大尉』に任ぜられたそうです。
連合軍は祖母にイギリス兵(オーストラリア兵?)2名と通訳を付け、
毎日ジープで送迎したそうです。
「昨日までの(日本軍の)上官が、急に下になっちゃったから、
妙な気分だったよ。」と言っていたそうです。
他にも色々なエピソードをを聞かされましたが、いつもにこにこしていた
祖母しか知らなかった私には驚きでした。
799 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/05/27(火) 00:00:57 ID:???
>>798
何故なら連合国側は従軍看護婦は将校待遇だから。
(日本では準士官・下士官待遇で将校待遇は少ない)
但し敗戦国側の看護婦なんで監視は付いていた筈だが、
捕虜の一般将兵よりは自由が許されていた様だ。
801 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/05/27(火) 10:34:11 ID:???
>>800
また聞きだから仕方ないかもと、横からちょっと擁護。
787 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/05/25(日) 03:23:38 ID:???
バイク乗りのおいらからの話。
バイク乗りが集まって飛ばす、佐世保のある峠道に、
ちょくちょく来ていたのが駐留軍ナンバーがついたヤマハFZ400R乗りの米兵。
日米親善試合とばかり、競争していたんだが、これが速い。
下りではいい勝負だったんだが、登りではマシンパワーの差で負けていた。
・・・バイク乗り同志、仲良くなるのも早い、
「基地で出す”ベース・ライセンス”のクラス1なら日本でいう大型2輪に乗れるんだぜ」から始まって、
「オレ、潜水艦乗りなんだよ、仕事はダイバーでね、潜って艦の底とか点検するのが仕事さ」
「ロッポンギも行ったなあ、ジャパニーズ・ギャルがいっぱいさ、わはは」
「M14って知ってる?ライフル持って夜、見張りに立つんだけど眠いのなんの」
喫茶店のハンバーガーにかぶりつきながら話す様子は、
米海軍潜水艦乗員というより、人なつこくて明るいアメリカ人のアンちゃんだった。
・・・「あいつ、見ないなあ」と、峠道の常連バイク乗りが言い出したころ、
おいらは知っていた、
おいらの行き着けのバイク屋に、フロント周りが大破したFZ400Rがかつぎ込まれていたのを。
バイク屋のオヤジいわく、
「あいつ、派手に転倒して重傷で、横須賀の海軍病院に移されたんだよなあ」。
それからあとのことは知らない、連絡もつかない。
あいつが乗っていた潜水艦「バーベル」も、そのあとしばらくして退役になった。
「よかったらオレの艦、見にこないか?」「行くよ、乗せてくれ」
約束がチャラになって、もう何年たつのか。
約束はどうでもいい、怪我が全快して幸せでいてくれればいい、と祈るばかりだが・・・。
1939年9月1日午前4時45分ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した。
第二次世界大戦の勃発である。
と同時にドイツと密約を交わしていたソ連もポーランドに侵攻。
イエジ青年は、極東青年会の本部を孤児院として開放し、戦禍で親を失った戦災孤児たちを庇護した。
そして極東青年会幹部を緊急招集し、勇士を募ってレジスタンス運動参加を決定した。
イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ部隊と愛称された。
祖国の危機にやがて孤児たちも参加し、一万数千名を数える大きな組織に膨れあがった。
ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、ナチス当局の監視も厳しくなり、ある時とうとう孤児院に三名のドイツ兵が押し入り、強制捜査を始めた。
一人の子供が隙を見て逃げ出し日本大使館に知らせに行き、急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官はこう言い放った。
「この施設は日本大使館の保護下にある。子供たちに謝罪して下さい。」
そして孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長と孤児たちに向かって、「君たち、このドイツ人たちに日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。
イエジたちが日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しました」といって直ちに引き上げた。
以降、ドイツ兵は二度と孤児院には姿を見せなかったという。
当時、日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日本大使館には一目も二目も置かざるを得ない状態にあり、日本大使館はこの三国同盟を最大限に活用してイエジキ部隊を庇護したのである。
ttp://harororo.hp.infoseek.co.jp/japan_pola.html
東ヨーロッパに位置するポーランド。
国土の九割以上を平原が占め、自然の要塞となる大河や山脈が存在しないポーランドは、長年、隣国のドイツやロシアの脅威に晒されていた。
1795年の第三次ポーランド分割により完全に国家が消滅して以降、シベリアの地は長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえられたポーランド独立主義者の流刑の地であった。
家族や恋人を追ってシベリアへ行く人も少なくなく、やがてウラジオストクなどの極東地域には過酷ながらもポーランド移民社会が生まれた。
1918年に念願の独立を果たしたポーランドであったが、ロシア革命に巻き込まれた極東地域の十数万のポーランド移民は悲惨な目にあっていた。
ポーランド移民の人々は飢餓と疫病と革命の最中、非常に苦しい生活を送っており、特に親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。
せめて、この子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの願いから、1919年9月ウラジオストク在住のポーランド人によって、「ポーランド救済委員会」が組織された。
しかし翌1920年春にはポーランドとソビエト・ロシアとの間に戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは不可能となった。
救済委員会は欧米諸国に援助を求めたが、莫大な費用と国益にならない救済行為にどの国も難色を示した。
そんな中、窮余の一策として日本政府に援助を要請することにし、救済委員会会長のアンナ・ビエルキエヴィッチ女史は1920年6月に来日し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴え援助を懇請した。
外務省の埴原正直外務次官は日本赤十字社に相談し、そのわずか16日後には、シベリア孤児救済が決定された。
独立間もないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない事を考えれば、驚くべき即断であった。
日本赤十字社の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、決定からわずか2週間で56名の孤児第一陣がウラジオストクを発って、敦賀経由で東京に到着した。
それから、翌21年7月までには孤児375名が来日。
さらに22年夏には第二次救済事業として390名の孤児が来日した。
命からがら日本に到着したポーランド孤児たちは、日本赤十字社の手厚い保護を受けた。
ウラジオストクから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯消毒され、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷり入れて貰ったという。
特に痩せていた女の子は、日本人医師が心配して「毎日一錠飲むように」と、特別に栄養剤を貰ったが、とても美味しい薬だったので、一晩で全部仲間に食べられてしまって悔しい思いをしたという話もある。
到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同情を集め、無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち、学生音楽会は慰問に訪れ、仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に招待し、慰問品を持ち寄る人々や寄贈金を申し出る人々は後を絶たなかった。
腸チフスを患っていた子供を必死に看病していた一人の日本人看護婦は、病の伝染から殉職している。
習慣や言葉が違う孤児たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけるのが良いと考え、日本赤十字社は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーランド人の大人を一緒に招くという配慮までしており、このような手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも哀れに痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り戻した。
アンナ・ビエルキエヴィッチ女史の証言
「日本に来て、久しぶりに子供たちの顔に笑顔が戻ってきました。生活を楽しむ余裕が生まれてきたのです。」
シベリア孤児ヴァツワフ・ダニレヴィッチ氏の証言
「(シベリアに居た時)どれだけこの(日本行きの)知らせを待ち望んだかわかりません。日本だけが手を差し伸べてくれました。」
シベリア孤児アントニーナ・リーロー女史の証言
「ひどい皮膚病にかかっていた私は全身に薬を塗られました。ミイラの様に白い布に包まれて看護婦さんにベッドに運ばれました。その看護婦さんは私をベッドに寝かせると布から顔だけ出している私の鼻にキスをして微笑んでくれました。(ひどい目にあってきた)私はこのキスで生きる勇気をもらい。知らず知らずのうちに泣き出していました。」
合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療や休養した後、第一次はアメリカ経由で、第二次は日本船により直接祖国ポーランドに送り返された。
日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さも考慮されて毛糸のチョッキが支給された。
この時も多くの人々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。
横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船する事を泣いて嫌がった。
中には帰国を嫌がって逃げ出した子供もいたという。
シベリア孤児ハリーナ・ノヴィッカ女史の証言
「誰もが日本に居る事を望んでいました。太陽が綺麗で、美しい夏があり、海があり、花が咲いている。」
シベリア孤児アントニーナ・リーロー女史の証言
「私たちにとって、日本は天国のような場所でした。」
埠頭の孤児たちは、「アリガトウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱して、幼い感謝の気持ちを表した。
神戸港からの出発も同様で、児童一人一人にバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振っていた。
祖国ポーランドに戻った彼らは養護施設であるベイヘローボ学園に保護され、彼らの再出発に首相や大統領までがお祝いに駆けつけたという。
イエジ・ストシャウコフスキ少年の証言。
「肌寒い日だった。全員が甲板に出た。港にはためく赤と白のポーランドの国旗をいつまでも見つめていた。幼心ながらも、これが夢にまで見た祖国なんだという感動で体が震えた。埠頭の人も建物も涙でにじんで見えなかった。」
イエジが17歳の青年となった1928年、日本との交流を深める為に、シベリア孤児たちの組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となった。
極東青年会は順調に拡大発展し、国内の九都市に支部が設けられ、1930年代後半の最盛期には会員数640余名を数えたという。
極東青年会結成直後にイエジ会長が、日本公使館を表敬訪問した時に思いがけない人に会った。
イエジ少年がシベリアの荒野で救い出され、ウラジオストクから敦賀港に送り出された時、在ウラジオストク日本領事として大変世話になった渡辺理恵氏であった。
その渡辺氏が、ちょうどその時ポーランド駐在代理公使となっていたのである。
これが契機となり、日本公使館と、極東青年会との親密な交流が始まり、極東青年会の催しものには努めて大使以下全館員が出席して応援し、また資金援助もした。
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772 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/05/20(火) 21:32:41 ID:???
天皇皇后両陛下ポーランド公式訪問
2002年七月、天皇皇后両陛下がポーランドに公式訪問された。
この五日間に亘る訪問をポーランドのマスコミは連日取り上げ、ポーランド国民の注目を集めた。
その歓迎ぶりに同行した宮内庁も驚きを隠せなかったという。
765名のシベリア孤児救済の恩義をポーランド国民は今も忘れてはいない。
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