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軍事板「戦時中、戦場でのほのぼのとした話」スレまとめサイト
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東ヨーロッパに位置するポーランド。

国土の九割以上を平原が占め、自然の要塞となる大河や山脈が存在しないポーランドは、長年、隣国のドイツやロシアの脅威に晒されていた。

1795年の第三次ポーランド分割により完全に国家が消滅して以降、シベリアの地は長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえられたポーランド独立主義者の流刑の地であった。

家族や恋人を追ってシベリアへ行く人も少なくなく、やがてウラジオストクなどの極東地域には過酷ながらもポーランド移民社会が生まれた。

1918年に念願の独立を果たしたポーランドであったが、ロシア革命に巻き込まれた極東地域の十数万のポーランド移民は悲惨な目にあっていた。

ポーランド移民の人々は飢餓と疫病と革命の最中、非常に苦しい生活を送っており、特に親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。

せめて、この子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの願いから、1919年9月ウラジオストク在住のポーランド人によって、「ポーランド救済委員会」が組織された。

しかし翌1920年春にはポーランドとソビエト・ロシアとの間に戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは不可能となった。

救済委員会は欧米諸国に援助を求めたが、莫大な費用と国益にならない救済行為にどの国も難色を示した。

そんな中、窮余の一策として日本政府に援助を要請することにし、救済委員会会長のアンナ・ビエルキエヴィッチ女史は1920年6月に来日し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴え援助を懇請した。

外務省の埴原正直外務次官は日本赤十字社に相談し、そのわずか16日後には、シベリア孤児救済が決定された。

独立間もないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない事を考えれば、驚くべき即断であった。

日本赤十字社の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、決定からわずか2週間で56名の孤児第一陣がウラジオストクを発って、敦賀経由で東京に到着した。

それから、翌21年7月までには孤児375名が来日。

さらに22年夏には第二次救済事業として390名の孤児が来日した。

命からがら日本に到着したポーランド孤児たちは、日本赤十字社の手厚い保護を受けた。

ウラジオストクから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯消毒され、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷり入れて貰ったという。

特に痩せていた女の子は、日本人医師が心配して「毎日一錠飲むように」と、特別に栄養剤を貰ったが、とても美味しい薬だったので、一晩で全部仲間に食べられてしまって悔しい思いをしたという話もある。

到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同情を集め、無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち、学生音楽会は慰問に訪れ、仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に招待し、慰問品を持ち寄る人々や寄贈金を申し出る人々は後を絶たなかった。

腸チフスを患っていた子供を必死に看病していた一人の日本人看護婦は、病の伝染から殉職している。

習慣や言葉が違う孤児たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけるのが良いと考え、日本赤十字社は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーランド人の大人を一緒に招くという配慮までしており、このような手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも哀れに痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り戻した。

アンナ・ビエルキエヴィッチ女史の証言
「日本に来て、久しぶりに子供たちの顔に笑顔が戻ってきました。生活を楽しむ余裕が生まれてきたのです。」

シベリア孤児ヴァツワフ・ダニレヴィッチ氏の証言
「(シベリアに居た時)どれだけこの(日本行きの)知らせを待ち望んだかわかりません。日本だけが手を差し伸べてくれました。」

シベリア孤児アントニーナ・リーロー女史の証言
「ひどい皮膚病にかかっていた私は全身に薬を塗られました。ミイラの様に白い布に包まれて看護婦さんにベッドに運ばれました。その看護婦さんは私をベッドに寝かせると布から顔だけ出している私の鼻にキスをして微笑んでくれました。(ひどい目にあってきた)私はこのキスで生きる勇気をもらい。知らず知らずのうちに泣き出していました。」

合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療や休養した後、第一次はアメリカ経由で、第二次は日本船により直接祖国ポーランドに送り返された。

日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さも考慮されて毛糸のチョッキが支給された。

この時も多くの人々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。

横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船する事を泣いて嫌がった。

中には帰国を嫌がって逃げ出した子供もいたという。

シベリア孤児ハリーナ・ノヴィッカ女史の証言
「誰もが日本に居る事を望んでいました。太陽が綺麗で、美しい夏があり、海があり、花が咲いている。」

シベリア孤児アントニーナ・リーロー女史の証言
「私たちにとって、日本は天国のような場所でした。」

埠頭の孤児たちは、「アリガトウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱して、幼い感謝の気持ちを表した。

神戸港からの出発も同様で、児童一人一人にバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振っていた。

祖国ポーランドに戻った彼らは養護施設であるベイヘローボ学園に保護され、彼らの再出発に首相や大統領までがお祝いに駆けつけたという。

イエジ・ストシャウコフスキ少年の証言。
「肌寒い日だった。全員が甲板に出た。港にはためく赤と白のポーランドの国旗をいつまでも見つめていた。幼心ながらも、これが夢にまで見た祖国なんだという感動で体が震えた。埠頭の人も建物も涙でにじんで見えなかった。」

イエジが17歳の青年となった1928年、日本との交流を深める為に、シベリア孤児たちの組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となった。

極東青年会は順調に拡大発展し、国内の九都市に支部が設けられ、1930年代後半の最盛期には会員数640余名を数えたという。

極東青年会結成直後にイエジ会長が、日本公使館を表敬訪問した時に思いがけない人に会った。

イエジ少年がシベリアの荒野で救い出され、ウラジオストクから敦賀港に送り出された時、在ウラジオストク日本領事として大変世話になった渡辺理恵氏であった。

その渡辺氏が、ちょうどその時ポーランド駐在代理公使となっていたのである。

これが契機となり、日本公使館と、極東青年会との親密な交流が始まり、極東青年会の催しものには努めて大使以下全館員が出席して応援し、また資金援助もした。


ttp://harororo.hp.infoseek.co.jp/japan_pola.html

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