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598 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2009/02/03(火) 18:54:38 ID:rijWDDB8 ?2BP(0)
戦時中ではなく現在の話だが
近所の老人ホームに老夫婦がいるんだが、知り合った場所は大阪城の通信所でした。
また結婚に至った出来事は、大阪空襲の時に爺さんが命がけで婆さんを守ったことでした。
そして普段はうるさいくらい話まくる夫婦なんだが、ある日、お互いに目を合わさず
指でモールスを打ち合いながら会話していた。
同じホームの爺さんに聞くと話したくない!顔も見たくない!と言う理由でそうしていたそうです。
そして会話の内容ですが、横須賀の元通信兵によると、、、、、
爺「大体お前は昔からそうだった!大阪空襲の時、お前を助けるんじゃなかった。背中の傷が今でも痛い!」
婆「あなただって、空襲の時いきなり手を引いていくから手ごめにされると思ったわよ!!」
爺「じゃあなぜ俺と結婚したんだ??お前から言ってきたんだぞ。」
婆「うるさいうるさいうるさい!!」(ここは肉声で)
肝心の喧嘩の理由は爺が勝手に海外旅行に申し込んだことでした。
599 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/02/03(火) 20:52:23 ID:???
犬も食わねw
602 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2009/02/03(火) 22:00:40 ID:gL3nhZFG ?2BP(0)
>>599
婆さんは当時お嬢様学校の大手前女学校の生徒で、当時は萌え萌えの美少女だったらしい。
何でも初勤務の時「皆様 ごきげんよう」とあいさつしながら通信室に入ってくるお嬢様だったそうです。
しかし耳だけは異常に良くノイズだらけの音の中から正確にモールス信号を聞き取れたので重宝されたらしい。
そして爺さんは婆さんを守るために自分の背中を血まみれになりながらも守り地下壕に案内したそうです。
594 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2009/02/03(火) 14:34:19 ID:+8qpq8th
近所に住んでいる元海軍航空隊の爺さんの話。
この爺さんは戦時中に少年航空兵として海軍に入隊し、大戦後半は偵察部隊の一式陸攻の
偵察員となり、運よく特攻にも駆り出されず負傷もせずに17歳の時に終戦を迎えました。
そして日本海軍の武装解除と兵員の召集解除も粛々と行われたものの、爺さんの除隊は
手続きの関係上ほぼ最後の方になりました。 爺さん達の所属していた海軍航空隊の基地
(確か四国)では除隊する兵士らに退職金と食料などの現物を支給していたのですが、
あいにく爺さんの番が回ってきた頃には備蓄されていた食料はほぼ底を付いていました。
基地の事務官も何か手渡せる物が無いかとあちこち探し回った所、結構な量の乾パンが
見つかったので「どうせお前らでもう最後なのだから全部持って行け!」
と大八車一台分の乾パンを現物支給されたそうで。
そして爺さん達は同郷の仲間(熊本出身)らと一緒に乾パンを載せた大八車と共に駅に向かった
のですが、あいにくどの列車も超満員で大量の乾パンを自宅まで持ち帰るのは無理でした。
そこで一同は協議の結果、背嚢に詰め込めそうな分だけ持ち帰り、残った大量の乾パンは
駅に居合わせた大勢の人達に無料で分配する事にしたそうです。
もちろん終戦直後の食糧難の時代でしたから、思わぬ臨時配給にあやかれた人々は大喜びし、
大量の乾パンもあっという間に無くなり爺さん達は大変感謝されたそうです。
その中には同じく召集解除されて復員してきた元陸軍の兵士も何人かいたのですが、彼らは
一様に「海軍さんの乾パンは美味しいなぁ」と感心していたそうです(陸軍と海軍の乾パンは
大きさも味付けも違う為)。
563 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/02/01(日) 20:18:53 ID:???
イラク復興支援での現地指揮官の話。碌な武装もせず戦地に行く事から現地の
部族の長の信頼と協力が不可欠、現地ではあちこちの有力者に顔つなぎした。
関係は最後まで良好だったが、困ったのはお茶を出されたとき。向こうでは、
砂糖にお茶が入ってじゃりじゃりするようなものが最高のおもてなしらしい。
断るわけにもいかず、全部いただいてきたそうだ。お陰で現地での部隊の安全
より自分の健康のほうが危険だったらしい。
564 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/02/01(日) 23:22:04 ID:???
命かかってんだからいちいち文句言わないで飲めよなw
565 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/02/01(日) 23:25:01 ID:???
次回は派遣前に現地料理を食す訓練をしようw
566 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/02/01(日) 23:32:59 ID:???
なんか食べ物でもヤバい物があったらしくて、かといって残すわけにもいかないから
食べて下痢になることも度々あったらそうだw
567 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/02/02(月) 00:20:58 ID:???
>>564
文句は言わず砂糖のお茶漬けを飲んだそうだ。他にも色々苦労してきたのに、
新聞に載るのは面会中の笑顔の写真ばかり。奥さんは国内で毎日のように心配
していたのにそんな写真ばかりで、「心配していたのに楽しそうねっ」と怒られ
帰国早々、ショボーン だったそうだ。
568 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/02/02(月) 00:25:53 ID:???
しかしこういうエピソードを知るたびに
隊員さん全員が無事に帰国できてよかったと思う。
562 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/02/01(日) 16:17:56 ID:???
>>556
多分分かってて端的な表現してるんだと思うけど、シュワルツコフはセントラル・コム
(中近東・東アフリカ・中央アジア即応軍)司令として緊急時はドイツ駐留軍等から引き抜く
精鋭部隊司令官になる予定で、それなりのスタッフと情報オフィサーは統括していた筈。
確かに「有事」がなければ閑職になりかねない地位に、士官学校史上最優秀成績での
卒業者と、相応のスタッフを配置しているあたりが備えの凄みか。
それだけじゃなんなので、結構知られた話かと思うが。
上で出ている古今亭志ん生、戦中・満州に行く以前に「ビールがあるから」と言われ知人宅へ。
メーターが上がって「あたしゃあるだけ飲み干すまで帰らない」と言うので一杯にビールを入れた
土瓶を貰ってふらふら帰る途中、空襲警報。「どうせ死ぬなら」と路傍にどっかと座ったまま全て
飲み干し、そのまま寝入ってしまう。翌日、無事無傷に目覚めた志ん生は帰宅。家人はてっきり
空襲で死んだものだと思っていたらしい。
戦後脳溢血に倒れ、恢復・復帰後に
「どうやら志ん生、空襲で死んだらしい」
「どうやら志ん生、満州で死んだらしい」
「どうやら志ん生、脳溢血で死んだらしい」
…「いやところがね、生きてんですけどね」。
と、自らの「死んだらしい」ネタで復活・健在振りを示している。
559 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/01/30(金) 13:26:10 ID:???
宮崎を根拠地にしていた第一空挺団の終戦後
二十日に渡る引渡し作業で米兵の立会いの下、武器弾薬は
処分されました。
けれども、軍衣、外套、靴などの官給品は、処分するにはもったいないと
いうことになり、宮崎県庁の前に十数台のトラックに満載して押しかけ、
県民への分配品として届けたそうだ。
ところが、県知事が後難を恐れて受け取りません。
こりゃいかんと、指揮官が側車で40キロの道を飛ばし、
団長の大佐の許へ走って命令書をもらって帰ってきて、
ようやく宮崎市長が「市民も助かる、ありがとう」と快く受領して
もらえたのであった。
戦後の話でスマン
552 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2009/01/29(木) 21:01:54 ID:F8hcTrs+
漫才師のいとしこいしのこいし師匠はよく戦争体験を語ってるな。
広島の師団に入営して92式重機を任されてたらしいのだが
兵舎に米軍機が機銃掃射にくるさかい対空射撃をせなあかんのやけど迫ってくる敵機なんて怖くてよう射てへんで でも射たないと上官に怒られるから通り過ぎてから後ろから射ちよんねん
機銃掃射された時の恐怖については
自分の身体をどうにか鉄帽の中に収めようと身体を縮めてみるんやけど入らへん
ちなみに広島で被曝して兵舎の生き埋めになって死にかけたらしいが、軍服がボロボロだったから死体からはぎとって帰ってきたと笑いながら話てたw