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686 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/02/13(金) 14:42:16 ID:???
引揚・復員の読者体験記の一部を編集
20年10月、ソ連軍の発行したパスポートを握って北朝鮮の小さな駅に
日本人が200人集まりました。男は数人で、ほとんどは女、子供でした。
しかし、「機関車に牽引力がない」との理由で私たちを乗せた貨車2両を
切り離して列車は行ってしまいました。
1日、2日と機関車が来るのを待っていたら、3日目に機関車がやってきて
私たちのいる駅に止まりました。すると銃を持ったソ連兵が10人ほど
降りて来ました。貨車には日本の軍人が捕虜として乗せられていたのです。
言葉をかわすことは出来ません。黙ってお互いのあわれな姿を見つめあい、
涙がほおを伝わりました。兵隊さんたちも泣いていました。
やがて、その貨車は北に向かって動き出しました。
そのときです。「捕虜の身にこんなものはいらない」と叫んで毛布、財布、
果糖などを私たちの貨車に向かって投げてきました。
「日本に生きて帰れよ!」、「子どもを死なすなよ!」と口々に絶叫しました。
果たしてあのときの兵隊さんの幾人が、日本の土を踏むことができたでしょうか。
685 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/02/12(木) 18:49:18 ID:???
シンガポール攻略戦下の鉄道第9連隊の中隊長の話から
スレンバンで一人の12歳の少女が鉄道隊に預けられました。
少女は、父はインドの雑貨商。母は日本人のからゆきさんだった
らしく、日、英、マレー語に通じており、通訳として雇われたという。
「日本軍は必ず勝つ。兵隊さんが来たら、戸棚のビールやお米を
出してあげなさい。日の丸を振って万歳といって迎えなさい」と
母親は言い残して英軍に連行されていったそうだ。
この話は美談として昭和18年度の「初等科国語五」に掲載される
ほどの強烈さがあったのこと。
シンガポール陥落後、憲兵隊が少女の母親の行方を捜したが、
英国官憲によって監獄に収容された後、インドへ連れ去られたと
判明された。
ジョーホルバルでこの知らせを受けた少女は、鉄道隊の手によって
元のスレンバンに送り返されたそうです。
中隊長が戦後、この少女の消息をたずねてまわったが、わからなかった
のこと。
『Humor in Uniform』から二つほど。
我々の師団は砂漠の嵐作戦のために、ハンビーを砂漠色に塗り替えていた。
結果ピンクみたいな色になり、みんなジョークを飛ばし始めた。
あるお調子者が我々を桃色機甲師団と名づけた。
しかし一番面白かったのはハンビーのバンパーに張ってあったステッカーだ。
”メアリーケイの事なら聞いてね” -DAVID K. DRURY
第二次大戦の時、陸軍航空隊としてヨーロッパへと送られる前、
私の父は彼の相棒に20ドルほど貸していた。
二人は違う部隊に送られ、連絡を取る事が出来なかった。
数ヵ月後、私の父の飛行機は撃ち落とされ、酷い傷口から出血し、
脱出し、ドイツ兵に捕虜として挨拶する事になってしまった。
長い鉄道の道と多くない飯と強制的な行進の後に、
彼は指定された捕虜収容所へと辿り着いた。
彼が工場に入ると、聞きなれた声が聞こえた。
”このケチ野郎!たかが20ドルのために
どんな手段を使ってでもついて来たってのか?” -BRUCE EY
633 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 17:34:05 ID:???
予科練時代の体験談に寄稿した人の話から。
生徒たちは、試験前のときには消灯、巡検のあと、こっそり寝床から
抜け出して常夜灯のある場所で、時間を惜しんで試験勉強してたそうだ。
見つかったら制裁が待っているので、人目のつかない場所を選ばなければ
いけません。筆者もトイレや浴場など常夜灯のある場所で勉強しようと
するが、明かりが小さくて筆者には字を読むのが難儀だったそうだ。
色々勉強の場所を探していたら、運動場の用具室は窓が裏側しかないため、
明かりをつければ近くまで来ない限り、見つからない絶好のポイントと
判断し、夜中1時ごろに教科書もってこっそり用具室にやってきました。
そしたら中には明かりが照らされており、中から誰何されました。
名と身分を明かすと中から「表からでは光が漏れる。裏の窓から入れ」と
返答がきます。
先客がいたか・・・と裏窓によじのぼって中に入れば、3年生、2年生も
ふくめて、すでに8人の生徒が教科書もって試験勉強をしていたそうだ。
中には初年生も混じっておられる。
筆者は改めて「みんな必死なんだな」と圧倒され、中に入って
「よろしくお願いします」と先輩の3年生たちに挨拶すれば、
「試験前になれば、みな勉強の時間が必要になる。ここでは、先輩後輩も
無しだ。周りに迷惑かけないようにしておけ」と3年生の一人が言いました。
日ごろは鉄拳上等の、鬼の3年生と恐れられてる先輩も、切羽詰まったときは
優しくなるんだな。と筆者はキツネにつままれた感じで用具室で
先輩後輩たちと隠れて勉強したそうです。
625 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/02/05(木) 23:59:42 ID:???
第1001航空隊の岩崎氏の秘話
昭和19年7月のある日、硫黄島からテニアン経由で、ぺリリュー島まで
新品の一式陸攻を届ける予定であったが、朝から突然、敵襲の警報が
鳴り、空を見れば敵機らしい黒点が見えた。
岩崎氏は「早く退避しなければ・・・」と動いたが、突如「飛行機で
逃げるんだ」と思いつく。
昨日、木更津から乗ってきた新品の一式陸攻に乗り込み、退避しようと
する近くの整備員に怒鳴ってエンジン始動させ、間一髪で敵襲から
逃れることができた。
無事に木更津に帰還できたのはよかったのだが、岩崎氏の心の中では
昨日三機で飛び立ったのに、今日は一機で勝手に逃げてきた。と
敵前逃亡の思いで非常にうしろめたかった。
指揮所に報告にいったものの、バツが悪いんで一緒に乗ってきた
塔整員とすぐさま立ち去ろうとしたとき、司令の少将が「ちょっと待て」と
とめる。
すると、司令は「新機の一式陸攻を敵の砲火から救った行為はみごとである
ご苦労!」と褒めてくれたのである。
岩崎氏は「やっぱり間違ってなかったか・・」と心の中でホッと
した。
実は、岩崎氏が従軍全期間を通じて、たった一回ほめられたのが
この逃避行である。
623 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/02/05(木) 23:35:46 ID:???
大戦中、陸軍航空本部の依頼で仁科理化学研究所では原爆製造の研究をしていました。
しかし、アメリカみたいに予算と人材を大量投入されたわけでもなく、
大戦末期で物資も不足していた上、陸軍が協力するといいながら、ほとんど丸なげで
実験設備も自分達で資材を集めて作ったりしていました。
で、まぁいろいろあって、六フッ化ウランを作る事に成功し、大量に作るために
ウランのカーバライトを大量に作る事にしました。
で、その時にそのために炭素を作らなければならなかったのですが、そのために
二酸化ウランと合わせて砂糖を使う事にしました。
ということで、軍の方に要求したところ、配給のを渡すわけにも
いかないという事で台湾から取り寄せてもらいましたが、船は使えず、砂糖用の
輸送機も安全の保証ができないという事で往復する便で5~10キロと届けられる
のよ使っていました。しかし他の研究室から舐めに来る者が来たり、自分達もお茶に
入れていたりして飲んでいたので、砂糖ばかりに頼ってはいられないと色々と
研究してデンプンを使った物も悪くないとわかり、航空本部に要求すると
余裕があったのか、かなりまわしてもらえました。
しかし、まぁ食べ物も厳しい時でしたから、今度は、このデンプンをお湯でかいて
砂糖を入れて食べて
「砂糖を入れ過ぎるとデンプンがよく固まらない」
という実験結果もだしていたそうです。
624 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/02/05(木) 23:57:50 ID:???
>>623
「君たちは本気で原子爆弾をつくる気があるのかっ!」 by仁科先生
622 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/02/05(木) 23:02:48 ID:???
レオーノフの話をもうひとつ
アメリカ国内各地を飛び回っていた自分を暑い夜にヒューストンの空港まで迎えに来てくれた
アメリカの宇宙飛行士たちに車でホテルへ向かう道すがらビールをおごろうと決心したレオーノフ
途中のレストランでビールを2ケース買おうとするも店員は「すでにライセンスの時間帯が過ぎているので販売できない」
ルールを曲げても遠来の客には最大のもてなしをするのがロシアの流儀
ソ連でしか手に入らない最高級のスタリチナーヤの瓶を片手に英語で
「やい、俺はシベリアから来たカウボーイだ!俺と仲間にビールをよこせ!かわりにコイツをやる!」
ソ連から来た宇宙飛行士だと諒解した店員がビール2ケースを出したので
レオーノフが代金を払っているとき、店員は3つめのケースを出して
「ヘイ!カウボーイ、こいつは俺のオゴリだ、幸運を祈るぜ」