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軍事板「戦時中、戦場でのほのぼのとした話」スレまとめサイト
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71 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 11:11:08.02 ID:sjVu28Dx.net
黒澤明は戦時中に徴兵されなかった。
本人曰く「徴兵検査で撥ねられたのだ」そうだ。
だが、あの偉丈夫の黒沢が検査で撥ねられたとは到底思えない。

父が陸軍の高官で、徴兵司令官が父の教え子だったため兵役を免れたらしい。


73 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 17:54:46.33 ID:w5qLYdla.net [1/2]
>>71
黒沢明は1910年生まれだから、世代的には1930年(大正軍縮期)前後の「甲種合格籤逃れ」があった頃だよ
満州事変(1931年)以降は満州駐箚師団とかができて入営者がどんどん増えていくのだけれども、ギリギリその対象にならなかった世代
なもんで、太平洋戦争開戦あとも、訓練召集の内容とか特技(兵としての必要な自動車免許とか)の関係で国民兵役の応召対象から外れてもおかしくは無いって


75 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 19:23:34.03 ID:B31mtLGB.net
逆に言えば兵役の期間的にはそんな長くなかったってことだな
中国戦線だと現地除隊とか他の国の兵隊が聞いたら眼を剥きそうなことやってるし


76 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 19:43:00.48 ID:w5qLYdla.net [2/2]
>>74
そう、同じ年でも、現役入営とか甲種合格(籤逃れ)で全然違うし、入営期間があるが為に再招集の対象になりやすい(とくに新兵への教育係り的な分隊長要員としてなら特に)
あとは、国民兵役での召集の場合は、産業統制とかの絡みで「一般工員とか販売員とか考慮すべきでない業種」から、連隊区や各町村の兵事係りのあたりで鉛筆舐める部分が多かったとか書き残されていますね


77 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 01:41:24.01 ID:pPLs/IyT.net
最近どこかで読んだ話で
戦前に兵器の研究者が徴兵検査受けたら合格になるはずの結果だったのに
検査官「お前痔だろう」
研究者「違いますよ」
検査官「いいや痔だ。よって不合格」
と言われて不合格なったことがあったって話あったな。
徴兵されたら困る海軍が手をまわしていたそうだ


78 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 01:46:36.59 ID:VMEV1Ia6.net [1/2]
そう言うのは初めから弾いとけば良いのに。


79 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 06:59:37.37 ID:KScm0c7B.net
国民義務だし世間体的にも全く受けないわけにも行かんのよ


81 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 09:47:28.42 ID:2DX33YN3.net
>>78
初めから弾いとけば良かった・・・パターンは上原敏だな。本名で召集したら歌手が応召してきたという。
上官からも「知ってたら召集してなかった」とか言われたとか。で、部隊が出動する時に内地に留まる事を強く勧められたが本人は拒否。
そして戦死しちゃった・・・。


82 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 11:09:23.05 ID:OiHBYRMu.net
>>77
その辺、船員や前線で任務に従事する軍属の現地徴兵検査でもけっこうあったようで、
揚子江方面の機帆船船員とかも、
検査官「おう機関長よ、今の船に乗るのと二等兵どっちがええよ?」
機関長「はぁ、船も若い者が多いのでワシが下りると心配ですし」
検査官「軍医ぃ、この人アレだよアレ、何か病気だ。ワシには治療するべき病気があるように見えるぞ」
軍医官「じゃぁ、肺湿潤か皮膚病(感染性)って事にしときますかね」
とか、(現場での必要性にかられて)多少の操作はあったようだけどね(船員が安全な職場とはいっていない

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68 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 06:01:00.28 ID:qNWhXSIt.net
朝ドラ「マッサン」のモデル竹鶴政孝は徴兵検査のとき甲種合格となるはずだった
しかし、軍医官が「アルコール製造は火薬製造の元ともなる軍事に関連する技術。兵隊になるよりも技術者として研鑽をつんだ方がよい」と言って乙種合格となった

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64 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 22:16:24.86 ID:mopjLG7q.net [2/2]
 第二次世界大戦末期、アルデンヌの森深くのドイツ軍陣地に、一両のシャーマン戦車が悠々と侵入した。後ろにはハーフトラックを連れ、ハッチからはドイツ兵がニヤついた顔を覗かせている。話はやや遡る。
 44年冬、アルデンヌの森に到達したアメリカ第12軍集団の右翼に休息が命じられた。軍集団を率いるブラッドレー将軍は、厳しい寒波と翌年の進撃に備える為、兵士に休息を与える必要があると考えたのだった。
 僅かな警戒部隊のみ残されたアルデンヌでは、同じように戦力の回復を図るドイツ軍との間で「共生」ともとれる状況が生まれ、幽霊戦線とも呼ばれるようになった。
 互いに徴用した民家から出てくるのが見えても、緩衝地帯に入らなければ撃たず、アメリカ兵がグレン・ミラー楽団演奏「イン・ザ・ムード」を流せば、返礼として「リリー・マルレーン」が返って来た。互いの偵察部隊さえ見逃し合っていた程である。
 そんなある日、偵察中隊に属する6名のドイツ兵を乗せたハーフトラックが緩衝地帯を越え、駐車された一両のシャーマン戦車を発見する。彼等は戦車内に誰も居ない事を確認し、ハーフトラックの操縦手を呼び寄せた。
 そのままシャーマンに乗り込んだ操縦手は、すぐにスターター・スイッチを見つけ、試しに押してみた。するとエンジンは唸りを上げ、快調に回り始めた。
 近くの小屋で酒盛りに興じていたシャーマンの乗員達はこれに気付く事が出来ず、ドイツ兵達はシャーマンを悠々と持ち帰ったのである。
 しかし、この戦利品は数日後、アメリカ軍の前線に戻されていたという……。なんで???

>>63 黒ニッカ。

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49 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/22(土) 10:14:37.28 ID:FHG+/Ho1.net [2/4]
いやね、わかっちゃいたんだけど小さい頃から「こうが」と読んでたのがくせになっちゃってね。
「きんが」なんて読み回し殆ど使わないから口に合わないのよ。まあここ掲示板なんだけど。

 お詫びにほのぼの?を一つ。
 1944年初頭、ポーランド南部ブリズナのレジスタンスから、飛翔体の打ち上げを写したフィルムがロンドンへもたらされた。それはブリズナ砲撃実験場のもので、ドイツ軍が大型ロケット兵器を実用化しつつある事は明らかであった。
 それから数ヵ月過ぎた44年5月、レジスタンスから実験場の詳細地図がもたらされ、設計図もしくは主要部品の入手が命令される。
 実験場は親衛隊が警備していたが、幸運にも時を前後して飛翔に失敗したロケットがブーク川沿いの湿地帯に墜落し、近くに住む農夫から連絡が入っていた。
 早速技術者を含むレジスタンスが急行し、ドイツ軍の捜索部隊を出し抜いてロケットを隠蔽。翌夜、連れてきた耕作馬三頭でこれを引き出すと、湿地がクッションになったのか、本体は破壊されていなかった。
 ロケットは送り込まれた科学者による分解調査と図面作成を受けた後、操縦装置他の重要部品をジャガイモを積んだトラック二台に隠され、タルノー秘密飛行場へ向かった。
 ロケットの発見と操縦装置の確保というニュースはロンドンの諜報部を沸き立たせ、早速これをイギリスへ輸送する「モスト(橋)」作戦が開始されていたのである。
 責任者は「アウシュヴィッツ帰りの男」イェルジー・ケミエルスキー。特命を受けたケミエルスキー達3人は、イタリアから飛来したC-47と落ち合うことに成功し、着陸した機体に急いで部品袋を放り上げた。しかし、離陸出来ない。数日前の雨で芝生がぬかるんでいたのだ。

続きます…


50 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/22(土) 10:17:48.98 ID:FHG+/Ho1.net [3/4]
 乗員も一緒になって狂ったように前輪周囲の泥を掻き出し、枝を集めて前に敷く。それでも車輪は泥にはまり、機長は命令通り爆破も考えた。
しかしケミエルスキーは諦めず、もう一度泥を取り除いて、遂に離陸に成功する。上空からは複数の探照灯が見え、機長は身震いを覚えながらイタリアへ向かった。
 三日後、ロンドンへ到着したケミエルスキー達にイギリス軍諜報部員が部品の即時引渡しを求めるも拒否され、強引に持っていこうものならケミエルスキーがナイフ片手に部品袋に覆い被さってみせた。
 彼らの言い分は「ポーランド将校にのみ引き渡される」というもので、射殺すると脅しても従おうとしない。これには英軍も折れ、ポーランド亡命政府を介して部品が受け渡されることとなった。
 調査の結果、V2ロケットの操縦装置は予想されていたラジオ・コントロールではなく、妨害不可能なジャイロ・コンパスと判明。多くのロンドン市民を疎開させ命を救ったが、この作戦記録は英国のどの機関にも見当たらないという。

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接近する戦闘機とスクランブル発進した戦闘機、そのパイロット同士の挨拶が撮影されました。
10月下旬、ヨーロッパ圏に接近したロシアのSu-34戦闘機に対し、
NATOは複数のF-16戦闘機をスクランブル発進させました。
数多くの写真が互いに撮影されたそうですが、
その中に互いに賛辞を送るパイロット同士の挨拶が写っていたそうです。

http://slide.mil.news.sina.com.cn/k/slide_8_335_32834.html#p=1

http://www.sinaimg.cn/dy/slidenews/8_img/2014_47/335_23916_404656.jpg
http://www.sinaimg.cn/dy/slidenews/8_img/2014_47/335_23917_127679.jpg

 

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16 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 18:13:03.14 ID:bsgKn9IZ.net [1/5]
>>7
1972年、日本の東急車両がソ連機械輸入公団から、サハリン向け客車130両の受注に成功したときの話。

大量受注といっていい数の受注だったが、納期が短く、
東急車両側では試作車を作って検討する時間がないため、
モスクワで主要図面の承認を受けた段階で製造をスタートせざるを得なかった上、
ソ連側から製造工程を監督する検査官が来日したのが、製造工程がかなり進んでからという有様。

娘1人、息子1人がいるソ連検査官、夫人と息子を連れての来日だったが、
一家での亡命を当局が恐れてのことか、娘の来日は認められなかった・・・が、検査官、鬼の鉄道マンでもあった。

「温水暖房はいいが、日本で使っているような温水ボイラではだめだ。
それに、電気循環ポンプを使って温水を循環させるものでは話にならない。
ポンプが故障したらどうするんだ?湯が自然対流で流れるようにしなくてはいけない。
冬の氷点下40℃の荒野で、暖房が止まったら乗客も乗務員もみな死んでしまうのだぞ?」
東急車両は急遽、自然対流式の温水暖房に対応した特製の大型ボイラを作り、暖房配管も全面的に見直した。

「床下配管のコックの配置も、こんなに狭いところに置くのはなっちゃおらん。
なるほど素手では扱えるが、ロシアの冬に、分厚い手袋をはめてでは操作できないではないか?いいか、これを見ろ」
ソ連から持参の冬用手袋をはめてコックを操作する検査官、確かに床下部材が邪魔になって操作できない。
東急車両はすぐに、配管の設計をやり直した。


17 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 18:13:59.49 ID:bsgKn9IZ.net [2/5]
「ソ連式の安全基準測定は、ブレーキをかけた車両に試験車を衝突させ、安全を確認することになっている。
これこそがいちばん確実で合理的な測定だ、日本式の荷重試験と走行試験だけでは信用できない」。
東急車両はそれまでに例がない、新車を衝突させての安全基準測定を行った。

幾多の難関を乗り越えて、最後に残っていたのが納入先の鉄道での現地試験だったが、
当時、ソ連はサハリンへの外国人入国を認めておらず、東急車両のスタッフが赴くことができない。
やむを得ず、国鉄の協力を得て東海道本線大船⇔来宮間で、回送列車の名目で走行試験が行われたが、
ソ連検査官、各駅ごとに線路に降り、台車軸箱に手を当てて過熱がないか確かめる念の入れよう。

・・・東急車両から130両の納入が終わったとき、ソ連検査官も妻子とともにソ連に帰っていった、
帰りの便はソ連貨物船、ソ連では貴重品のちり紙などをお土産にしての帰国であったが、
仕事にまったく妥協せず、東急車両側にも強い印象を残して帰った検査官、
のちにはモスクワのソ連国鉄本社に栄転になり、
東急車両と検査官の”作品”ともいえる客車は、その後も末永くサハリンを走っていたという。

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71 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 19:26:24.77 ID:ZR5UO+b2 [1/2]
1987年か88年頃だったか、日本海沿いの港町にいたんだが千円でソ連の船員からウォッカを買ったことがある。時効だけど厳密には密輸ということになるのか
きいたこともない銘柄で、飲み仲間だった偉くなった人にお土産で渡したが、あとで感想をきいたら大層臭かったらしい


972 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 19:51:40.62 ID:wKwIBWAc [1/2]
昔はロシアのウォッカは手に入りにくかったな
スミノフは亡命ロシア人がイギリスに作った会社らしい


973 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 20:00:37.48 ID:SPqkBnv6 [2/2]
>>971
ソ連崩壊後、ロシアになって直後のことだが、
北方領土に住んでいるロシア漁民が北海道に不法上陸し、北海道警に逮捕されたことがあった。

不法上陸の動機は至極単純。
「操業中に酒が切れた」
「どうせなら美味い酒が買いたい飲みたい」
「ちょっとだけ向こうには美味い酒をいくらでも売ってるじゃないか」で、上陸→御用だ!と。

かのベレンコ中尉も日本に強行着陸直後、日本製のビールを味見して「聞きしに勝る美味だった」、
とある、元・日本で諜報活動していたKGBマンがソ連崩壊後に述懐していわく、
「また日本に行くことが許されるなら、こよなく愛するサッポロビールをもう一度飲みたい」。

かの国の酒がよほど不味いのか、日本の酒が美味すぎるのか・・・。


974 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 20:16:38.32 ID:wKwIBWAc [2/2]
日本に来た西洋人が必ずといってはまるのが、アサヒスーパードライらしい
日本人にとってはあっさり味のビールでしかないが、奴らにとっては今までに飲んだことのない味、癖になる味だとか


975 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 20:19:38.64 ID:zcZEkERP [1/2]
>>973
世界のビール飲み比べが趣味だが、日本のビールはかなりうまいと思う。
学生時代に留学してきたドイツ人が(お値段以外は)絶賛してたし。
でも、当時のソ連の酒は粗悪だったのもあるだろうなあ。


976 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 20:21:02.35 ID:iiQxEGiB
俺の知り合いの娘さんがドイツ人と結婚した。

そのドイツ人の婿さん曰く、世界一美味いビールはヱビスだそうだ。

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970 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/12(水) 19:12:46.83 ID:SPqkBnv6 [1/2]
ソ連最末期のころ、日本の某港にソ連の客船が入港したことがある。

出張で某港町に出かけ、朝メシをマクドナルドで食ってたおれに、
金髪のおっさんが話しかけてきた・・・けど、
日本語と片言英語しかわからないおれ、何を言ってるのかさっぱりわからない。
仕事用のメモ帳を出してきて絵を書いて筆談すると、どうやらこの町の観光名所に行きたいらしいが、
こっちも地理には不案内。
しまいにゃ大汗かきながら、昼メシ食うところを探すのに持ってたガイドブックを引っ張り出してきて、
ああだこうだの説明が終わると「スパシーヴァ」。

その言葉だけはわかった、おっさん、ロシア人だ・・・そこで、ふと店内を見渡すと、
なんだかあか抜けない服装の、老若男女取り混ぜたおっさんの仲間が、もそもそとセットを食っている。

ゴルバチョフ政権になって、モスクワにもマクドナルドができたはいいが、
ファーストフードというよりは値段の問題で中級レストラン並みの扱いだった、と、
日本でも報道された時代の話だ、
まずは西側に来たならマクドナルドで朝食を・・・ってところだったのか。

ガイドつけるなり、せめてロシア語の地図配ってあげるなりしろよ、と思ったのは、当時のおれのおせっかいなんだろか。

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942 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 20:30:19.64 ID:O3R66CyP
戦時中、物流が滞ったことでの副産物の話。

昭和16年、全国の駅弁業者に主食たる米の節約命令が通達され、
函館本線のある駅の業者にも、それが来た。

しかしながら、その年、駅にほど近い漁港では例年にないスルメイカの豊漁・・・まではいいが、
すでに大量の新鮮なイカを出荷するだけの物流手段が確保できず、
スルメイカが大量に余っていたのである。

業者は余っていたイカを使い、米の節約につながる新メニューを模索してみた。
最初はイカとサツマイモを組み合わせてみたりもしたが、どうも美味しくない。
やはり米を使わなければ、と、やむを得ず、イカの胴身に米を詰め、出汁で炊き上げてみた。

それでも、一般的な駅弁に比べれば格段に米の節約ができた新メニュー「いかめし」の、
最初にファンとなったのは北海道に配属された兵だった。
当時、駅弁は、一度に大量に配食でき、衛生的で栄養にも富むとして、
列車で輸送される兵員への好適な給食と位置づけられていたのである。

苦肉の策から生まれたといえなくもない「いかめし」ではあるが、現在に至るも好評を博している。

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905 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/10/23(木) 20:41:20.75 ID:jTgr0G5m
>>896
ずいぶん昔の月刊「GUN」に、じいちゃんのフィリピン戦記として投稿された話があった。

緒戦のフィリピン戦線で、米軍を追撃していた投稿者のじいちゃん、
投げ捨てられていた米軍の小銃を拾った。
支給されていた三八式だと、撃ったら薬莢を回収しろとか何かとうるさいんだが、
拾いものの米軍小銃ならあとのことを考えなくてもいい、撃つだけ撃ってあとは捨てたとか。


906 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 18:27:55.06 ID:77S36Cee
薬莢を回収しろって、自衛隊か?


907 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 20:58:50.19 ID:fdIMIO56
>>906
旧軍もやってた伝統行事なのしらんの?
旧軍のは再利用が目的だし自衛隊ほどはやかましくなかったそうだが


908 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 21:01:41.88 ID:ixJUyGqL
>>906
平時には、自衛隊ほどではないにしろ、薬莢を回収していた。

日中戦争中だったか、初実戦で敵弾が飛来する中でも、薬莢がコロコロ遠くに転がっていったときに、思わず
誰もが薬莢拾おうとしたって話を聞いたことがある。


http://blog.livedoor.jp/dsicorp-omoshiro/archives/6765929.html
> 旧軍でも薬莢は回収していたとのことです。
> そこで件の小隊長が支那事変出兵時、部下の兵から「小隊長殿、薬莢は回収するのですか」と質問を受け
>ました。実戦ですので件の小隊長は「バカ、実戦だぞ、薬莢など回収しない」と答えました。
> ところが、戦闘が終わってみると自分のズボンのポケットがなんだか重い、中を確かめてみると、それは薬莢
>だったのです。「訓練とは恐ろしいものだぞ」というのが教訓・戦訓でした。

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