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軍事板「戦時中、戦場でのほのぼのとした話」スレまとめサイト
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679 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/16(火) 13:33:14.94 ID:???
「もう椰子に登る元気もなかった。塩食ってないから。だから幹をたたっきって、椰子の実を日章旗に包んであっち逃げこっち逃げ」
しかし、彼はやがて数十人に包囲されてしまう。
「もう駄目だと思ったね。ただもう駄目ならせめて一服してからがいいなあと思って《ギブミーシィガレット》って言ったのさ。
すると、もう立てもせんと思ったんだろうねぇ、タバコを一箱投げよこした。
こりゃあ話せる、案外話せると《アイム.ハングリー.ボイルドライス.プリーズ》って。
そしたら支え起こしてくれて、50mくらいかな、椰子の小屋連れてかれて、米炊いてねぇ。
それを椰子の葉にばらばら出して、塩かけて、もう掴んで夢中で食ったね。そしたら鴨が歩いてて、家畜かねぇ、それも食いたくなって―」

NHK戦争証言―ニューブリテン島

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648 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/14(日) 17:06:40.91 ID:???
>>639
帝国陸軍二等兵だったじいさまが戦後、初めてコーラを見たとき、
「あんな黒くて気持ち悪そうなモン、飲めるか!」と思ったそうな。

しかし、だんだんと周囲で飲むひとが増えると「試しに飲んでみるか」となり、
飲んだが最後、酒が苦手な甘党だったこともあり、一度でコーラ党に変身。
自営業だったじいさま、コカコーラの営業マンを呼んで、他社に先駆けて社内にビン入りコーラの自動販売機を据え付け、
若い社員からは「冷たいコーラがいつでも社内で飲めるなんて、ウチの社長は話せるなあ」と、思わぬ効果も。

しかし、晩年は糖尿病という思わぬ伏兵の攻撃を受けて入院、大好きなコーラも制限されることになったじいさま。
「ばあちゃんも医者もうるさくてかなわん、お前、お代は渡すから買ってきてくれんか?」
見舞いに行くたびに、おれ、こと孫には、コーラとセブンスターを買ってくる任務が与えられ、
「買ってはきたけど、じいさま、ほどほどにしておかないと・・・」
「これがワシの楽しみなんじゃ、大目に見てくれ、思えば軍隊で吸った”誉”は不味かった、うまい煙草とコーラがあればワシは幸せぞ」。

かっての敵国の飲み物と、戦前戦中には吸えなかったうまい煙草をこよなく愛した元・帝国陸軍二等兵、
さすがにお棺にコーラを入れるわけにはいかなかったが、セブンスターのカートンは持たせてあげた・・・。

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639 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/13(土) 19:31:52.36 ID:???
昭和21年。東京。
俺のおじいさま、当時16歳、の貞操は、白人米兵により脅かされた。
するとそこに颯爽と現れたMPのジープ。
まさにアカオニのごとき表情のMPがヒラリとジープから飛び降り、
走って逃げ出そうとしたレイパーを追跡、捕獲、謝罪。日本語で。
それにたいして、おじいさま:
「車で追いかけた方が良かったんじゃ…」
みんな大爆笑。
ジープで家までおくってもらい、後日、正式な謝罪(将校がきたらしい)&コーラ2ダースをうけたとか。

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594 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 20:14:57.93 ID:???
小ネタだけど。

大阪市内にあったじいさまばあさまの住まい。
家の裏にちょっとした庭園をこしらえていたんだが、石灯篭にだけ、いつまでも苔がつかない。
じいさまに聞いてみると「一度、火であぶられた石には苔がつかんのや」。

戦前、同じところにあったじいさまばあさまの家、
大阪大空襲で跡形もなく焼けてしまい、何とか残っていたのが石灯篭だけだったのだ。
戦後、家を建て直したとき、戦前の家の思い出のよすがに、石灯篭を庭園に据えたのだった。

平成の世になってじいさまが亡くなると、子供一同でビルを建てようということになり、
ばあさまは最上階に住まいを設けて子供や孫で面倒を見ることに決定、
思い出深い家も取り壊し、石灯篭も処分してしまったが、
「今はビルだらけになったけど、空襲の直後はここから大阪城のあたり(軽く数キロある)が見えてたんやで」とは、ばあさまの思い出話。


595 名前:ハインフェッツ ◆L81ZQG5HXc [sage] 投稿日:2011/08/01(月) 10:00:01.53 ID:???
多分、高温の炎にさらされる事で石材表面の細かな傷や皹が
溶けて塞がっちゃうから苔が付かなくなるんだろうな。

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422 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 00:59:24.21 ID:???
うちのじいちゃんとばあちゃんの話

じいちゃんは兵隊で南方に行ってた
慰問袋をおくったのがばあちゃんだった
他の人に送られた慰問袋と違って
家族のこととか、村のこととか、「今日は稲刈りをしました。新米は美味しかったです。兵隊さんにおにぎりにして食べてもらいたいです」みたいな文とか
何度も繰り返し読んでたそうな

戦争が終わって慰問袋の女の子に会いたくなったじいちゃんは学校の名前からばあちゃんを見つけ出した
戦争孤児になっていたばあちゃんは親戚の家でこきつかわれてたらしく
「俺の嫁にくるか?」
「なる!」
二つ返事でばあちゃんは答えた
そのまんま誘拐みたいに二人で逃げて、ばあちゃんが成人してから結婚した

当時ばあちゃん13歳、じいちゃん28歳
俺がロリコンなせいって…………

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303 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 11:34:57.58 ID:???
戦後の話になるけどほのぼの一つ。

終戦直後、佐世保に進駐したアメリカ軍に一人のカメラマンがいた。
軍の記録写真として焼けた佐世保や神戸を撮影する一方、
小学校にお邪魔して授業を撮影させてもらったり
招待された先の家でお風呂にはしゃぐ仲間を撮影したり
思い出の写真を撮影してゆく。

さて、ある日撃墜された爆撃機の調査をするという班に同行。
搭乗員は現場にきちんと埋葬され、小さな墓標まで立ててあった。
しかし、肝心の爆撃機の残骸はどこにも見当たらない。
不思議に思いながら、付近の住民に話を聞いていると、
物資不足というのに、ピカピカのジュラルミン鍋が…。
爆撃機の残骸は鍋や食器に生まれ変わっていたのだ。
「埋葬してくれた優しい日本人への細やかなお礼」として、空を飛んだ鍋たちは
回収されることなく残されたそうな。

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270 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2011/05/02(月) 15:07:40.63 ID:8YlrL1hT
キヤノンの前身:精機光学は、太平洋戦争での戦火が激しくなった頃、
軍需指定を受けていた精機光学は、つてを求めて山梨県の都留郡
(現、都留市)の谷村町と宝村とに分散して疎開した。

平和はわが国の敗戦によってもたらされた。
戦後の混乱の中、精機光学には、疎開先にある工作機械などを
東京へと運搬する手だてはなく、生産復旧は目処が立たなかった。

だが横浜に駐留していた米通信隊の指揮官が無類のカメラ好きで、
この窮状を聞き、軍用トラックを動員して機械類を目黒の本社工場へと輸送してくれた。
精機光学ではその恩情に報いるべく最新型を組み立て贈呈したのであった。

http://web.canon.jp/Camera-muse/camera/film/data/1933-1955/1946_s.html?categ=crn&page=1933-1955

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134 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/03/09(水) 22:55:51.42 ID:???
ほのぼのとはちょっと違うが、沖縄でのニュース。
一昨年那覇市内の工事現場から人骨と人名の刻まれた万年筆が出土。
自分のおじでは…と名乗り出た男性とDNA鑑定した結果、万年筆に刻まれていた名前の本人だと判明し
60余年の月日を経て沖縄から遺骨は故郷に帰ることになったそうです。

…沖縄だけでもあとどれくらいの未帰還兵が眠っているんだろうか。

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692 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2010/09/23(木) 19:02:42 ID:???
こないだシベリア抑留の経験があるおじいちゃんのお話を聞くことができた。
おじいちゃんは技術伍長で、ソ連軍の将校が使う電話機を修理したことで、
ちゃんとした食事を出してもらえるようになったんだそうな。
「こんな簡単な作りの電話機を修理できんで捕虜にやらすとは……」
と思ったんだとか。
ただ、日本軍の防寒着とソ連軍の防寒着では、
ソ連のものの方が作りが雑でも凄く性能が良いことに驚いたらしい。
「ドイツもこいつにやられたんだな」
と日本やドイツと、ソ連の冬季戦能力の差を実感したんだと。


693 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2010/09/25(土) 00:30:11 ID:???
ソ連赤軍の官給外套なんて生地が硬すぎ厚すぎ重たすぎなせいで服が「自立」するからな

日本帝国陸軍は仮想敵国的に満州が主戦場だから、戦前より通常の外套や冬衣とはまた別に
防寒外套(兎の毛をたっぷり)や防寒長靴(フェルト+革)や防寒帽とか
冬季装備はドイツやアメリカなんかよりよっぽど充実していたけどさすがにソ連には負ける。


694 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 00:10:37 ID:???
>693
兵隊同士が喧嘩になった時に綿入れの外套か何かを数枚重ね着したうえで
米軍供与のシャーマン戦車の付属品として付いてきたトンプソン短機関銃で撃ち合いやったら
弾が当たっても貫通しなかった、なぞという話があるくらいにはガッチリしとるみたいね>赤軍防寒着

まあ、それもフィンランドで痛い目見たからそこまでちゃんとしたものになったらしいが・・・


695 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 01:13:40 ID:???
流石にそれは…、ありえる…のか?


696 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 10:50:11 ID:???
防寒着をたらふく着込んだ赤軍兵が
ゾンビの如くウラーウラー唸りながら前進してくる絵を
想像しちゃった。

 


あれ?


普通じゃん


699 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 11:50:52 ID:???
>695
いや、俺も最初読んだ時はポルナレフ状態だったがな、
だが大佐まで昇進した人が言ってるんだから、まるっと嘘とも思えんでなぁ・・・
ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/loza3.html

トンプソン、というか45口径の径の大きさと初速の遅さ、
そして軍用実包だからラウンドノーズ形状というのが組み合わされば、
ごっつい防寒具を貫通できないのかも知んない。
多分9ミリだと違う結果になるかと。
そういや銃剣でもナイフ形だと防寒具を貫通できないから、ってんでスパイクにしたところもあったような。

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658 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2010/09/19(日) 23:48:11 ID:???
時は1941年頃の地中海。
北アフリカのロンメルへの輸送路を確保しようとするイタリア、ドイツ両軍と、
それを阻止せんとするイギリス海軍潜水艦との間でも死闘が繰り広げられていた。

だがいくら敵とは言っても船を沈められてしまえばただの遭難者である、
人道的にも彼らは可能な場合は救助されるのが普通であった。
もちろん情報収集という面でも彼らには大きな価値があったのだが。
それはともかく、イギリス潜水艦に収容されたイタリア人捕虜たちは、
救助してくれた感謝の意を示すため、また囚われの身の手持ち無沙汰を紛らすため、
そして実際的な理由からある労務を志願する者が多かった。
それは料理人である。

実を言うとマルタを根拠地としていた英海軍第10潜水戦隊の主力であったU級潜水艦は、
小型な部類であったために初期は専任の調理員が配属されていなかった。
このため乗組員の中から志願、または任命されたものが兼任する事となっていたのである。
だが「当たり」を引いた艦はともかく、「ハズレ」を引いてしまった艦では
海上封鎖を喰らっていたマルタの食料事情の悪さと相まって、
イギリス人基準ですらうんざりするような代物が食卓に並ぶ羽目となったのだ。
イタリア人達が料理人を志願するのも無理はない。

イタリア人“シェフ”達は限られた食材で見事な腕前を披露し、中には
「イギリスから出撃してからこっち、こんなに美味いもん食った事無ぇ!」と評されるものや、
魚雷の装填から士官室の給仕まで手伝ううちに英語を覚える者まで現れた。
しかしこれを見て「ヘタリアw」などというのは浅はかである。
かれらは主に輸送船の乗組員で軍人ではなかったのだし、
イタリア海軍対潜部隊は勇猛に、そして執拗に戦い、
多くのイギリス潜水艦を血祭りに上げていたのだから。

 

659 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2010/09/19(日) 23:48:59 ID:???
むしろこういう場合に始末に負えないのは、空気の読めないドイツ人のほうである。
あるドイツ兵はマルタで潜水艦から降ろされた際に桟橋の上でナチ式敬礼をやらかした揚句、
「ハイル・ヒトラー!」とブチかまし、居合わせた英軍歩哨に着剣した小銃をつきつけられる羽目になり
またあるUボート乗組員は「丁重な扱いを要求」した上に尋問を担当した第10潜水戦隊司令に対し、
「お前等の対潜作戦お粗末すぎm9(^Д ^)pgr」とイギリス側を扱き下ろしたのである。
戦隊司令シンプソン大佐はこの男の前で表情を変えないように必死だったに違いない。

なにしろこの大馬鹿者、延々と続けた自慢話の最中に、
イギリス側も掴んでいなかった重要情報、Uボートの可潜深度をバラしていたのだ。

さてイタリア人たちも潜水艦がマルタに無事帰投すると捕虜収容所に送られたのだが、
すっかり艦に馴染んでしまい「俺は降りんぞ!戦争が終わるまでずっとこの艦にいるんだ!」
と抵抗する者もいた。だが規則は規則、彼ももれなく収容所送りとなってしまった。
新しい友人を失った悲しみで乗組員たちの士気が下がったのは想像に難くない。

彼こそ「こんなに美味いもん食った事無ぇ!」という料理を作った“シェフ”だったのだから。
 

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