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323 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2007/04/24(火) 21:54:50 ID:???
昭和18年に国鉄に採用され、長崎機関区に若き機関士として配属された、
日本生まれの韓俊基氏。
原爆投下の日、たまたま非番で寮にいたため、難をまぬがれ、
戦後、韓国国鉄の機関士として新たな人生を歩みはじめる。
・・・だが、朝鮮戦争が始まり、韓機関士は南北を結ぶ「京義線」の機関士として乗務。
1950年12月、中国軍の参戦に追われて総退却する国連軍の、錯綜した戦線の中、
南へ向かう避難民を満載した列車の、決死の運転を買って出ていた。
12月31日、のちには非武装地帯の真ん中になったチャングン駅までたどり着いた韓機関士と乗務員2名。
チャングン駅にいた米軍兵士「ここから先は進めない、乗務員はそのまま、機関車に乗って待機せよ」。
・・・しかし、この命令を不審に思い、
もっと詳しい説明を聞きにチャングン駅の駅舎に韓機関士と2名が入っていったそのとき、
愛機、蒸気機関車「マテニ10号」は、米軍の一斉射撃を浴び、走れなくなってしまった。
すでにここまで列車がたどり着けたのが奇跡なほど、中朝軍が近くに迫っており、
あとで中朝軍に「マテニ10号」が捕獲されるのを恐れた米軍が銃撃を加えたのだが、
命令どおり「マテニ10号」に乗ったままなら、韓機関士と2名の乗務員、間違いなく射殺されていたところだった。
・・・原爆をも、朝鮮戦争をも生き抜いた韓機関士は1985年に韓国国鉄を定年退職。
愛機「マテニ10号」は、チャングン駅跡に放置されたまま、非武装地帯の中に取り残された。
2000年「京義線最後の機関士」として、京義線再連結事業の韓国側起工式に招待され、
金大中大統領、在韓米軍司令官と対談する機会を得た韓機関士、「あのマテニを見たい」と申し出た。
特別に非武装地帯に入る許可を得て、十数人の米軍兵士に守られ、変わり果てた姿の「マテニ10号」と再会。
韓機関士の目に、涙があふれていたという。
・・・さらには2001年、JR九州の招待で来日した韓機関士、
長崎機関区時代の同僚と再会、「第二の故郷」と自らが言う長崎の復興も目にした。
・・・しかし、かって韓機関士が金大中大統領と約束した、
「京義線が再連結されたら一番列車に乗車する」約束だけが、いまだに果たせずにいる。