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355 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2005/12/17(土) 00:59:45 ID:???
ベトナム戦争報道カメラマン、沢田教一がピュリツァー賞を受賞した写真が「安全への逃避」。
小川を渡って銃撃戦から逃げるベトナム農民の家族を撮ったもので、
その後、沢田教一はUPIスタッフの協力を得て、その家族の「その後」を追ったことがある。
家族は無事に戦火を逃げ延び、村に落ち着いていた。
沢田教一はピュリツァー賞の賞金の一部を、家族に贈ろうとしたのだが、
村の村長に反対された。
「あなたの贈ろうとしている金額はベトナム人が一生かかっても稼げない金額だ。
そんな大金を贈ったら必ず、あとでいざこざが起きる、やめた方がいい」。
そこで沢田教一とUPIのスタッフは考えた末、家族にミシンを贈ることにした。
お金なら使ってしまえば終わりだが、ミシンならそれを元手に内職をして食べていけるだろう、と。
出直した沢田教一とUPIのスタッフに、村長、家族の間で、ささやかながらミシンの贈呈式が行われた。
その折、沢田教一は、手札判にプリントした「安全への逃避」を家族のもとに置いてくるのを忘れなかった。
のちにカンボジア内戦で沢田教一はゲリラの凶弾に倒れ、
「安全への逃避」に撮られた家族がどうなったか、ミシンを元手にささやかな平和を築くことができたか、
追跡調査はなされていない。
358 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2005/12/20(火) 00:14:07 ID:???
>>355
ミシンネタ。
某ミシンメーカーがキャンペーンを行ったことがあり、
「発展途上国にミシンを贈ろう!
ついては、わが社のミシンならどんな古いものでも下取り致します」。
実際のところ、家庭用ミシンの古いものは二束三文にすらもならないのだが、
有利に下取りしてもらえるとあって、結構な台数が集まった。
下取りした旧式の家庭用ミシンは、本社工場の修理部門に集められ、
修理やオーバーホールが施されて、発展途上国への援助に充てられることになった。
だがここで、本社の営業部門から、ひそかに修理部門に指示があった。
「すぐに壊れるように適当に直せ、壊れたら買い替えにわが社のミシンを考えてくれるはずだ」。
「そんなことができるか、適当に直せと言われればできないことではないが、
そもそも買い替えもできない国のひとたちに贈るものではないのか。
わが社の名誉にかけても、しっかりと使えるように直してやる」と、
立ち上がったのは本社修理部門の、ミシン職人集団だった。
新品同様に修理されたミシンはコンテナに詰められ、
あるものは東南アジアへ、あるものはアフリカに出荷されていった。
「おかしい、故障したという報告が全くない」、
首を傾げる営業部門からの報告を聞いて、職人集団はひそやかに喜んでいたという。
251 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2005/10/20(木) 21:20:24 ID:z5WqdUuO
・・・河野守宏という人の本に書いてあった、戦時厨房の危険なお遊び。
米軍戦闘機空襲!
↓
防空壕の土盛りの上で、仁王立ちになって手拭いを頭上で振り回し、
「オーイ、こっちこっち」
と、敵機を挑発。
↓
それを見て、アメちゃん早速ダイブ。
↓
敵機がバリバリと機銃掃射してくるのをギリギリまで踏みこらえ、間一髪のところで防空壕の入り口に頭から飛込んで弾を避ける。
↓
敵機が頭上を飛び去ると、防空壕から再び這い出して小躍りしながら、
「ヤーイ、外れだぞ、この下手糞が!」
・・・これを繰り返して、一番近くまで敵を引き寄せた奴が、仲間内で英雄認定されたという。。。
253 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2005/10/20(木) 21:55:20 ID:???
うちの爺さんの隊の隊長だった少佐は
「慌てるな、下手に動くとかえって当たる。人間のような小さな目標にそうそうあたるものではない。」
とかいって悠然と構えていたそうだが。
254 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2005/10/20(木) 22:09:20 ID:03npVi4f
小野田さんも木を遮蔽物にしてあまり伏せなかったと言ってたな。
曰く「タマにしか当たらん弾と言うんです」
257 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2005/10/21(金) 00:56:28 ID:???
>>253
うちの親父も似たようなこと言ってた。
戦争映画とかで、仁王立ちになって軽機なんかで向かってくる飛行機撃つ奴がいるけど
「不思議とああいう奴には当たんないだ」って。
208 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2005/09/30(金) 20:19:57 ID:???
うちのおじいちゃんのお話をしてみませう
当時海軍軍医だったおじいちゃんは中国、海南島(だったかな?)に派遣されていました
そこでは宣撫工作のため、現地の人たちにも治療していたそうです
内地では効かなくなった薬でも耐性がないためか、驚くほど効果が現れたとのこと
評判は評判を呼び、奥地からでも治療を受けに来るようになりしばらくしてのお話です
ある日、いつものように診療していると、家族に付き添われた女性がやってきました
家族いわく、「この子は病を抱えている。どうか治してやってくれないか」といいます
とりあえず患部を見せなさいというと女性は服を脱ぎ始め……
おじいちゃんの目は(|| w ) 0 0 となったそうです
なんと女性は真性の半陰陽、俗にいうふたなりさんだったのです
さすがのおじいちゃんも治療はできず、丁寧に断ったとのこと
……余談だが孫の漏れが重度のふたなり好きなのはその時のショックが隔世遺伝したせうわなにをするやめぇdrftgyふじこlp;
127 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2005/06/17(金) 11:20:53 ID:Py7cGviJ
知人の兄さんが、子供の頃の体験談。
昭和20年の夏、名古屋の庄内川河口で泳いでいたら、
P-51マスタングの編隊が低空で目の前に現れた。
びっくりして、仲間と必死に水に潜って、数分間…
息が続かなくなって水面に出たら、P-51が頭上を旋回しており、
ちびってしまったとのこと。
また、あわてて水中へ!こんなことを数回繰り返していたら、
攻撃もされず、バンクしながら去って行ったとのこと。
パイロットの顔が見え、笑っていたようだと。
133 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2005/06/19(日) 21:51:19 ID:DdXKWkaD
>>127
その話と同じ話を亡父から聞いたことがある。
時と場所は同じ。
P51は「艦載機」と言っていたように思うが、内容はほとんど同じだ。
「初めてヤンキーの顔を見た。びびった。」
「そのせいで持っていた冬瓜が割れてしまった。」(なぜだか不明)
とも言っていた。
その時、亡父も一緒に遊んでいたのかもしれないね。
136 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2005/06/21(火) 00:20:04 ID:1RoMTu2W
>>133 奇遇ですね。
>>127 の知人の兄さんは、中根という名字です。
すでに15年ほど昔に病気で亡くなられたが、
年が大きく離れていたので、今も存命なら70歳前後のはず。
飛び去る機体のきれいな後ろ姿を眺めて、子供心に日本は勝てないと思ったとか。
真っ黒に日焼けした元気で純真な子供達が、敵機の攻撃に遭わなくてなにより。
137 名前:133[] 投稿日:2005/06/21(火) 01:36:33 ID:efPIiGY6
私事を書き込むのをお許しいただいて。
>>136
亡父は昭和9年生まれですから、存命なら70歳のはずです。
姓は近藤です。平成11年に亡くなりました。
B29以外の小型機は全部、「艦載機」扱いでしたから、あなたのお知り合いの
兄さんと同じ場所で同じ「空襲」に遭ったような気がします。
>飛び去る機体のきれいな後ろ姿を眺めて、子供心に日本は勝てないと思ったとか。
似たようなことも言っていました。
いや、奇遇ですね。ますます、同じ場所に居合わせたのではとの確信が深まりました。
>敵機の攻撃に遭わなくてなにより。
そうですね。そこで機銃掃射でもされていたら少なくとも今の私はないわけですw
なんか運命を感じましたよ。