633 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2011/08/12(金) 18:21:11.60 ID:???
>>615
昭和20年8月9日、ソ連軍満州侵攻が始まり、同日、樺太からの北海道疎開が開始された。
15歳未満、65歳以上の男子と婦女子に限る、とされた、樺太南端の大泊港から北海道・稚内への緊急避難は、
8月13日から本格化したが、
定員800人の連絡船「宗谷丸」に4700人を詰め込み、
その上に海軍の海防艦6隻まで動員しても、まだ積み残された避難民が、大泊港に8列で3キロの長さの行列を作っていた。
しかし、同日、鉄道省稚内管理部では、ソ連軍の北海道上陸が近いと判断、
ソ連軍に鉄道を利用させないため、動ける車両を疎開させる計画を立てていた。
軍需輸送、兵員輸送関連の軍機書類の焼却も始まっていたところに、15日の玉音放送。
車両疎開のための臨時列車運転はその時点で全て中止となったが、
わずかにタイミングがずれておれば、樺太からの避難民の大部分は稚内港で立ち往生した可能性があったのだ。
いや、すでに避難民に対する稚内発の列車の輸送能力は限界を越えていた、
客車どころか石炭車、貨車など、動ける車両は全て臨時列車のダイヤを組んで動かしており、
乗せられるだけ乗せた避難民の手に握られていたのは、稚内駅で臨時に発行した、行先が白紙の切符だった。
8月20日、ソ連軍は樺太・真岡を占領、8月23日には大泊に達すると見込まれた。
8月23日、ソ連側から「連絡船の通行の安全は保証しない」と通告があり、
大泊発22時の最終の連絡船には推定で1万人が乗船。
大泊警察署から「航行途中、ソ連に拿捕される危険性がある」との達があって4000人が下船したが、
神の助けというべきか、「宗谷丸」の拿捕に向かったソ連艦艇は荒天のため足止めを食い、
最後の連絡船「宗谷丸」は最後の6000人の避難民を乗せ、稚内に入港。
大泊から最後に稚内に入った通信文は「ナミダ、ナミダ、ナミダ」であったという。
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