112 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 01:29:37.76 ID:???
1919年、革命と内戦で混乱するロシアには多くのポーランド政治犯がおり、家族諸共シベリアに送られていた。
予てより苦しかった生活も内戦がシベリアまで及ぶにあたって甚だ窮することとなり、親を殺されたり、餓死によって失った孤児は数千人に上った。
この余りの惨状にウラジオストク在住のポーランド人はアンナ・ビルケウィッチ女史を中心にポーランド児童救済会を立ち上げ、早速保護に乗り出した。
しかしそう豊かでない彼らに数千人もの孤児を救出する力はなく、またポーランド独立戦争によって本国への陸路救出もままならなくなってしまった。
救済会はアメリカを始めとした各国赤十字を頼ったものの、その殆どは21年までに軍と共に撤退してしまった。よって唯一残った日本軍に彼らが助けを求めるのは自明の理であった。
日本政府は孤児の惨状を憂慮し、赤十字及び協力する陸軍に救出を命じた。当初の目的を逸脱した軍が内陸深く進出していたことが役立ったのはなんとも皮肉である。
彼等は軍用トラックさえ使って孤児や保護していた修道女を搬送し、海軍の輸送船がウラジオストクから日本へと輸送した。これにより1920~21年に300名強、後に総計800名強の孤児が救われることとなったのである。
続く
113 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 01:33:04.09 ID:???
彼等はまずシラミなどの退治の為に男女問わず丸坊主にされたが、福田会育児院の看護婦達による温かな介護により元気を取り戻していった。
また新聞で大々的に報道されて多くの国民の同情を呼び、寄付が多く集まったのに足して近くの芸子さんなども足繁く通って遊び相手になったという。
しかしポーランド人は美男美女が多かったのか、事件も起こってしまった。ある日12歳の少年が行方不明となり、大騒ぎとなったのである。
必死の捜索の後にこの少年は無事保護されたが、なんと綺麗な洋服を着ていたという。後に届いた手紙によれば、
「なんと可愛らしい顔立ちなことか。それがあのようなボロを着ているのを見るは忍びない。よって百貨店で一式揃えてやったのだ。後で送り届ける筈が急用で出来ず、このようなことになった」
ということであった。
こうしてすっかり明るくなった彼等も本国へ帰ることとなり、別れの際には帰りたくない、別れたくないと涙を流した。しかし帰るべきではなかったのかも知れない。彼等の多くが成人する頃、ポーランドはドイツ軍に占領されてしまったのだから。
確か孤児達の結成した国内軍組織があったり、ポツダム会談前後に外交情報を流してくれた孤児もいた筈だけどおいら忘れちゃった(あは…。
時は流れ1995、この話を知った在ポーランド日本大使兵藤長雄は驚き、孤児を探し出して大使館へと招いた。
孤児たちは老いていたが、皆大変喜んでいる様子だった。
一人の老婦人は、
「もう日本の土は踏めないと思っていた。でも大使館に呼ばれて這ってでも行こうと思いました。何故ってここは小さな日本の領土でしょう?」
と言って、昔日本人から送られた扇を見せたということです。( ‘_‘)…
121 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 15:13:28.12 ID:???
>112-113
ポーランドと日本の繋がりは「諜報」でも、かなり強固でしたね。
独ソでポーランドが分割された後、欧州に散らばるポーランド情報網の引き継ぎを日本陸軍へ
打診しています。
ロンドン亡命政権は「敵」である日本と協力して諜報戦を継続。
その関係は終戦まで続きました。
122 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 15:39:20.89 ID:???
>>121
知らなかった。
しかしポーランドは今存在しているのが奇跡なくらい悲惨な歴史を持つ国家だなぁ。
かつて東欧一の強国でロシアやチェコの内紛に加担した加害者の一面もあるけど、三度の分割と文化の破壊というのは…。
「ポーランドという国家及び民族の存在証明をを全て破壊せよ」
これはロシア/ドイツ/オーストリア共通の統治方針だったそうだ…。
管理人:
当ブログはその他にもポーランド孤児の話を収録しております。
ぜひ、検索窓で「ポーランド」を検索してみてください。
[1回]