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軍事板「戦時中、戦場でのほのぼのとした話」スレまとめサイト
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286 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 22:46:39.68 ID:JJ0SqKwW.net
大正十四年夏、独立後初のポーランド陸軍大演習に各国駐在武官が招かれた。
樋口季一郎少佐もその一人で、演習も半ばに旧都クラカウ市で開かれた大夜会に招待される。
主賓「英陸軍大学長」アイアンサイド少将を最上位に各国武官が並ぶ。だが「日本」の席次は最下位。

最も遅く着任し、他武官が中/大佐クラスばかりなので当然とも言える。

しかし樋口は「日出でる国の武士」として末席に甘んじるを許さず、
早速― 席次を繰り上げねば退席も辞さず ―と抗議。
驚いた案内役のポーランド陸軍中佐は、なんと英米仏に次ぐ席次を与えたのである。

ポーランド側が気を利かせたのか、この夜会以降樋口は車上からの演習参観の際、英アイアンサイド少将と米マッケンネー中佐の間に席を得た。
だが、アイアンサイドは見るからに巨漢で、またマッケンネーも80kg近い巨体だったから、樋口は二人の間でサンドイッチのように身動き一つ出来ず、散々な目に遭ったのである。

デレガシオンとして堂々と主張した樋口も、我が身の舌禍に泣いたに違いない。


289 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2015/05/09(土) 12:49:08.01 ID:onGzCTRF.net
>>286
後にポーランドのユダヤ人を助ける事になるのは、その時の経験からなのかな?


290 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2015/05/09(土) 15:32:15.00 ID:nXnejgmx.net
>>289
オトポール事件に樋口氏が関わったのは関東軍特務機関長としてユダヤ人コミュニティとパイプがあったからかと。
かつて最先端のポーランド諜報機関の技術/手腕を学んだからこその部署で、その意味では関わりがあります。

ハルピンユダヤ人協会会長のカウフマン博士と親交のあった樋口氏は、極東ユダヤ人大会で反ナチの演説を打つくらい弱者(ユダヤ)擁護の人物です。
これは武官時代のドイツ視察で目にしたユダヤ迫害や、親交のあった在伯ソビエト武官の協力で異例のソビエト視察旅行が出来たからでもあります。
コーカサス―グルジアでユダヤ人集落を訪れた樋口氏は、当地の老人からユダヤの民の悲運を訴えられ、また「東方の救世主」として日本の名を挙げられています。
ソビエトからのユダヤ排斥、そしてポグロムへと繋がる時代の直中ですから、深く感じるものがあったようです。

昭和十三年三月八日に情報担当課長小山内少佐の報告があってから、満州国外務部若宮参事官の直訴、カウフマン博士の直談判があり、樋口氏は救援を決断します。
旧友の松谷中佐(満州軍軍事顧問)からの忠告もありましたが、結局外務部を頼らず満鉄の松岡総裁に話を通し、二日後にはハルピン駅に第一陣の救援列車が到着しました。

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190 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2015/02/19(木) 18:10:40.11 ID:AtjYryL5.net
軍用 冷蔵庫 でぐぐったら、
弾薬庫の話ばっか出てきた

野外炊飯1号2号みたいな、
ほのぼのマシンを期待していたのに


227 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2015/04/05(日) 21:46:57.10 ID:5/2dTK43.net
>>190
コカコーラの「ジャングル・ユニット」なんか、どう?

WW2開戦と同時に、コカコーラ社の社長、ウッドラフ氏は言った。
「コカコーラ社は全力を挙げてアメリカ軍を支援し、すべての軍人が、
どこにいても5セントでコークが飲めるよう、あらゆる協力を惜しまない」。

いや、戦時だろ、タダで飲ませてもいいんじゃねーか?・・・はともかく、

コカコーラ社からは、正式の肩書はテクニカル・オブザーバー、
将校待遇の軍属だったため、ついたアダ名が「コーク大佐」が数千人送り込まれ、
WW2全期を通して、64箇所のボトリング工場を建設あるいは復旧し、50億本のビン詰めに成功している・・・のだが、

太平洋戦線でもコカコーラを供給するため、コカコーラ本社が開発したのが「ジャングル・ユニット」だった。
製氷機とディスペンサーを組み合わせ、軍の車両に乗せられるサイズにした機械で、
前線の兵士にも冷えたコカコーラを提供できるようになったのだが、

当時の米軍機関誌「スターズ・アンド・ストライプス」の表紙マンガに、
「え?コカコーラがないだって?」と仰天する兵士が描かれるほど、
アメリカ軍にはあって当然、欠かせないソフトドリンクになっていた一方、

たとえ太平洋戦線であっても、1本5セントを必ず取ったコカコーラ社、
くどいようだが、最前線でカネ取るなよ、と、思わないでもない・・・。


228 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2015/04/05(日) 22:49:04.46 ID:bdoTL+97.net
>>227
その辺、廉価で販売するのはと愛国的行為ともみなされるけれども、タダでばらまけば株主や融資元から業務上横領(個人の売名行為のために会社に損害をあたえた)と訴えられるからねえ

なお、サイパン攻防戦において、日本軍は輸送船の二重底や護衛艦の空きスペースにドラム缶を積むなどして現地で消費する燃料を涙ぐましい努力で集積しようとした。
一方、米陸軍はコーラの原液輸送のためにタンカー2隻を持ち込んだ。

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33 名前:名無しさん@おーぷん[sage] 投稿日:2015/05/31(日)13:30:57 ID:p4H
ニューギニア砲兵隊戦記からのはなし

戦争末期の頃、密林にある日本の砲兵陣地の正確な位置わからないとかで敵が毎日薄く広く砲撃してきていた。
ある日、兵士がいつもの砲撃だと蛸壺に隠れていると突然背中に何かが落ちてきた。
なんだと思い背中を確認するとそれはなんとカンガルーだったのだ。

なんでも密林に砲撃すると木の葉や枝にあたって空中で爆発し、色んなモノが落ちてくるとかで
偶然木の上にいたカンガルー?が蛸壺の中に吹っ飛んできたのであった。

なおその日の食事には兵士全員、飯盒の蓋に小指ほどのお肉がついてきたとか

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11 名前:名無しさん@おーぷん[  ] 投稿日:2015/02/10(火)16:17:17 ID:rYS [2/2]
陸自の歌姫






12 名前:名無しさん@おーぷん[] 投稿日:2015/02/10(火)19:58:22 ID:NbP [1/4]
>>11
海自に対して陸自が出したのだから、空自も出さねばなるまい。

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171 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2015/02/12(木) 21:48:00.36 ID:PoSZiqbi.net
久々にほのぼのした話を一つ

大戦末期、足柄が沈没した時の話
沈没に備えて爆雷には安全ピンを刺し「総員退船」「浮くものはなんでも投棄せよ」の声に押されて
次々と海原に飛び込んでいく水兵さん

救助を待つ間、ふと波間に漂う陸兵をみて驚いたのなんの
小銃を持って浮いている者は珍しくなく
一升瓶を持つ者、缶詰持つ者もいた。缶詰は海面に投棄された木箱をこわし
中に入っていたのを配ってもたせたらしく銃剣でこじ開け中味を食べながら救助をまっていたそうな


173 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 10:58:02.73 ID:yicqD0sd.net
野風か沼風の艦長も被雷沈没した後にしがみついたのが冷蔵庫
僚艦に救助された時に「しってるか?牛肉も生のママでけっこういけるぞ」と答えたとか

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8 名前:名無しさん@おーぷん[] 投稿日:2015/02/08(日)11:32:57 ID:nsr
日露戦争のとき日本の塹壕に手紙が投げ入れられた。
内容は「私の母に私は元気ですとだけ電報を打って欲しい。」とロシア語で書かれていた。
手紙には一緒に金貨が何枚か入っていた。
数日後ロシアの塹壕に手紙が投げ入れられた。
内容は「言われたとうり電報を打っておいた。しかし少し金が足りなかったから私が足りない分を出しておいた。」

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2 名前:名無しさん@おーぷん[] 投稿日:2015/02/05(木)01:21:48 ID:fPU
陸軍いちぜんめし物語より

戦争になる前の平時の軍隊では肉の日と魚の日が交互に出る様な裕福な食事が出てたらしい
ただ中華の献立はなかったとか

ちなみに重営倉に入るとおかずが固形塩だけになるらしい


32 名前:名無しさん@おーぷん[sage] 投稿日:2015/04/27(月)23:59:42 ID:nqi
>>2
>ちなみに重営倉に入るとおかずが固形塩だけになるらしい
ただし飯の量は通常と同じで、3日に一度は普通の食事が食えるのだ。

その意味で重営倉よりも恐れられたのは「懲戒減食」
単に食事の中で飯の量が減るだけなのだが、通常の勤務や演習をこなしつつも
飯の量が半分以下に減らされるので
とてもじゃないが耐えられるものでは無かったとか。

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123 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 23:22:52.96 ID:EYmKX4+n.net
「運隊」といえば、80年代後半に予備校の講師をしておられた方が戦時中、
いつものように学校に行こうとしたら母親から「回っても立ってはいけないよ・・・」と
小声で目を伏せて言われて、なんのことだと不思議に思って家を出たそうな。

学校につくと、なにやら適性検査を受けろと言われて、その場でぐるぐる回ったあと
片足で立つということをやらされた。負けん気の強いその方は、ドヤッとばかりにピタッと
止まって見せたら「よし!」と言われて、後日徴兵の知らせが来たとか。
母親は「だから言ったのに、おまえは・・・」と泣き崩れたそうで、「数日後に終戦にならなかったら、
ひょっとしていわゆる特攻隊になっていたのかもしれない。」とおっしゃってた。

なお、その方は授業時間に余裕があるとやたら芙蓉部隊のことを褒めちぎっていた。

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116 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/12/06(土) 16:10:52.47 ID:qwygZyJ6.net
祖父は婿養子で実家はこの地方では結構な部類の名家だったそうな。
で、実家の長男は地元連隊のある部門の超お偉いさん。

日華事変の頃に、「これから先の戦は危ないから、今のうちに志願してしまえ!」
というお達しが出て地元連隊に志願。
当然、長男の庇護を受け一回目のは無事除隊。

で、またまた実家から「婿入り先は貧乏だから、恩給がつくまでお勤めしなさい!」
ときつ~いお達しが出て、その後2回応酬し、最後はなぜか軍曹にまでなって
無事、現役除隊。恩給ももらえるようになったらしい。

その後、戦争は泥沼化していくのだが、一度も前線に出る事もなく、のんきに大陸
の連隊本部勤務していた祖父にとっての戦争とは物見遊山の旅だったらしいw

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85 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 20:30:19.48 ID:NkENKp97.net [1/2]
ナポレオン時代のフランスでは、20歳から25歳の壮丁に兵役義務があった。
兵役年限は平時に5年、戦時には無期限。
初期にはくじ引きで当たった者だけが召集されたが、ロシア遠征のころにはほとんど全員が召集された。

当時、兵役に行けば生きて帰れるのは3人に1人と言われており、
当然ながら兵役逃れのあの手この手が横行することになる。

手っ取り早いのは、既婚者は兵役を免除されたため、徴兵年齢以前に結婚してしまうことだった。
次の手は身体を傷つけることで、
当時の銃は火薬の包みを歯で食い破って装填するものだったが、前歯を折ってしまうとそれができない。
それも通用しないとなれば、撃鉄を起こす親指を切り落としたり、足を折ったり、片目を潰す者まで現れた。


87 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 20:40:56.74 ID:NkENKp97.net [2/2]
それでも応召が決まってしまえば、逃亡する者も後を絶たなかったが、
奥の手として、当時のフランス軍は替え玉の入営を認めていたのである。
しかし、替え玉を頼むには巨額の費用が必要で、
とてもではないが一度に払える家族はおらず、年賦で支払われるのが普通ではあった上、
もしも替え玉が戦死すれば、年賦の支払いが残るほか、
戦死後15日以内に別の替え玉を立てなければならず、家族の負担は増えるばかり。

だが、1813年、替え玉は同一郡内の同一出身階級の者に限る、と、法律が改正されたため、
替え玉制度も有名無実のものとなる。
金持ち同士では替え玉のなり手がおらず、貧乏人同士ではお互いに金がなかったからだった。

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